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この家に療養を始めてからは人は来ない。
かなり痩せてしまった姿を見られたくないという俺の希望、出来れば元気な姿を覚えていて欲しい、特に仕事関係の人には。
だから愛子も人を呼ばない。
子供達の目もあるからこの家に彩香を呼ぶ事は無いと思う。
それに愛子も嫌なはずだ。
このマンションは愛子と結婚が決まった時に購入した。
いわば愛子の為の家で、一度、部下として彩香を連れて来た時、酔っていたからあまり覚えていないけど、アレは良くない、と後から愛子に怒られたのを覚えている。
復縁してから過去の反省をさせられた。
愛子には頭が上がらない。
愛子が人を呼んだのは「彼」だけだ。
それもちゃんと俺に聞いてからの事で愛子がどれだけ自覚しているかは分からない。
愛子と彼はよく似ている。
自分の気持ちに鈍感で真っ直ぐ過ぎて、まるで恋愛は人生で一度しかしてはいけないと思っている様に見える。
だから俺に出来る事、僅かに背中を押す事、それはしたつもりでいる。
きっかけは与えた、言葉も伝えた、子供達への繋ぎもした、彼がどうするかそれを見届けられないのは残念だ、とノートに書いた。
(彼の性格からして、俺が生きている間は動かないだろうからね。きっとこの時間を大事にして下さいとでも思っているのだろうね。)
そう考えて、またお人好しだなとフッと笑う。
今、愛子は買い物に出掛けている。
愛実がもうすぐ帰るからと入れ違い程度を予想したらしい。
愛実からは家族ラインで急いでます!と猫が走っているスタンプが送られて来た。
大丈夫だから転ぶなよと返信を打ち、目を閉じて懐かしいことを思い出す。
最近はこうして昔の事を良く思い出す様になった。
***
愛子と別れて出向をして、仕事にやりがいを感じられずにいた時、母からそこでコーヒーでも飲んでこいと言われて何気なく入ったコーヒー店。
座席数も少なめの食べ物もないコーヒーだけの店。
後ろの看板を見上げながら何を飲もうかを考えて、レジ前に立ち、いらっしゃいませ、の声で驚き真っ直ぐ前を向いた。
「え………あ……………。あ〜〜〜。」
驚き過ぎて声が出なかった。
(なんで…愛子がいるんだ?えっ?ここで働いてるのか?)
母さんが!母さんは知ってたのか!目元を片手で押さえて頭の中はパニックになっていた。
目の前の客が俺だと分かった愛子も暫く無言の後で、
「……………えっと…いらっしゃいませ。ご注文は?」
と、やっと言葉を出し、動揺している様で目は一点を見つめていた。
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