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「響子!」
ふたたび声をかけられて(実際には何度も名前を呼ばれていたのかもしれない)、響子は自分の日焼けした肩からようやく顔をあげた。彼女はそこではじめて、惨状を目の当たりにした。
あたり一面にまき散らされた夥しいカラスの死骸、そしてその中心に座りこんでいる自分。
悲鳴をあげようと口を開けた響子だったが、肺からしぼりだされたのはかすかな吐息だけ。甲高い叫びには至らなかった。
誰かに助けを求めることも、身体の震えを止めることもできない。精神は肉体を置き去りにして、どこか別の世界に迷いこんでしまっていた。
そんな彼女の身体を抱きしめる誰かがいた。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
遠くから聞こえる馴れ親しんだ声を耳に、響子はようやく自分を抱きしめているのが祖母だということに気がついた。
目の荒い麻の着物の肌触りと、そこから香る線香の匂いを手がかりに、正気が徐々に取り戻されていく。
頭を撫で、慰めの声をかける祖母をよそに、響子はふたたび空を見上げた。
あれは幻覚だったのだろうか。夕陽を受けながら大空を舞う鷲はもういない。
祖母の肩越しに、地面に突っ伏す男の姿も見えた。響子を襲った男は、いまなお落下しつづけるカラスの死骸になかば埋もれるようにして、全身を血に染めたまま事切れていた。
少女に向けられた毒牙……その犯行は未遂に終わったらしい。
病院で受けた診断の結果、響子は男に頬を殴られたのと、転倒の際についた擦り傷以外は怪我を負っていなかった。ありていにいえば、彼女の純潔は守られた。
犯人が死亡したためか、警察は響子に対して詳しい取り調べを行った。嫌疑こそ抱かなかったものの、彼女はこの強姦未遂事件の被害者というより、被疑者死亡時の唯一の目撃者として扱われたのだ。
事件が落着を見せ、ようやく取り調べから解放された響子は、それから数週間のあいだは抜け殻のような状態だった。
だが、祖母はそれ以上に憔悴しきった様子だった。
響子がようやく元の生活を送れるようになった矢先、祖母は突然倒れ、近くの大学病院に入院した。
結局それから何度か入退院を繰り返したのち、響子が高校に入ってひと月も経たない頃、祖母は長患いの末亡くなった。脳溢血だった。
君は潜在的な加害者意識の持ち主なんだね。サルビアはそう言った。
彼の見立てが正しいのであれば、響子がその加害者意識とやらを持つに至ったのは、あの夏の壮絶な出来事を経験したことと、唯一の肉親を亡くしたことがきっかけだろう。
当然、強姦魔に対して負い目や呵責を感じているわけではない。むしろ、この手の卑劣漢には憎しみや恨みをもって然るべきである。
もっともどういうわけか、響子は犯人に対してはなんの感情も抱けなかった。というより、よくわからなかったといったほうが適当なのかもしれない。
というのも、響子は犯人の正体はおろか、どんな顔をしていたのかすら覚えていなかったからだ。
幼い心に大きな傷を与えた事件を早く忘れてしまいたかったのは確かだ。
だがその記憶を完全に葬り去ってしまったいま、響子はあの体験に対して怒りをおぼえればいいのか、悲しみに明け暮れたらいいのかわからず、そうした感情を持て余していた。
そもそも、記憶にない相手を憎んだり憤ったりなどどうしてできるだろう?
あのときのことを振りかえるにつけ、響子はきまって悪感情よりも戸惑いをおぼえるのだった。
それよりも、響子が自責の念から誰よりも許しを請いたいと思ったのは祖母だった。
自分のかけた心配がもとで体調を崩してしまった祖母には、いくら謝っても謝りきれるものではない。
それどころか最愛の人が亡くなったいま、謝罪することはおろか、相手と話すことさえかなわなかった。
思えば祖母の死こそが、いまの響子の人格を形成する大きな原因となったに違いない。
あの事件が起きる前までは、彼女も内気ながらもごく普通の少女だったのだから。
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