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 結局、響子は卒業に必要な最低限の単位だけをとり、あとは学校にいっさい顔を出さなかった。専攻した英語の実力を試す機会として出ていたアメリカの短期留学の話も、諦めなくてはならなかった。  こうして響子は男性からの好意と女性からの嫌悪の板ばさみにあいながらも、孤独を恐れて後ろ暗い人間関係にとどまりつづけていた。集団の中で標的に吊るしあげられるのは強烈なストレスだったが、かといって独りで生きていられるほど彼女は強くはなかった。  それでも自分を厭い、ときには傷つけようとする相手に気を許せずはずもなく、響子は中学、高校、大学と進学するごとに、そこでの交友関係を清算するように彼らの前からひっそりと姿を消していった。  卒業と同時に悪い関係を、ささやかなりとも築くことのできた良い関係ともども置き去りにしていくのだ。  薄暗い大学生活を送っていた響子だったが、それでも優秀な成績を修めていたおかげで会社に新卒採用され、さらには花形の広報部に配属された。  全体的に表情が暗く口数が少なかったものの、響子は仕事をしっかりとこなせる優秀な社員だった。社交的な人柄とも言えなかったが、彼女の美しさとそれを鼻にかけない奥ゆかしさは社内外を問わず、広報部を出入りする多くの男性を魅了した。  響子もまた、このときだけは満ち足りていた。たとえ男性相手の客寄せパンダのような立場であっても、祖母が亡くなったあとではじめて自分の居場所を見出すことができたからだ。  だが美しさで勝ち得たささやかな幸福感は、やはりその美しさで失われることとなる。  事の発端は、響子に対する同じ広報部の男性社員の好意からだった。  若さと能力を兼ねそなえ、広報部の次期エースと目されていた男性だったが、響子はその溢れるような自信にしばしば辟易していた。彼は何度となく響子をデートにの誘い、彼女はそれをどうにかかわし続けた。  きっとそのうち諦めてくれる。そう考えていた響子は、あとでその態度が逆効果だったことを思い知らされた。再三断られたことで、相手の執念がますます強まっていったのだ。  ある日ついにしびれをきらした男性社員は、同僚たちの前で響子をなかば罵るように詰問した。  なぜおれをないがしろにするのか?  他に好きな男がいるのか?  それともおれを鼻であしらうのを楽しんでいるのか?  響子は曖昧に弁解しながら周囲に助けを求めようとしたが、その場にいた誰もが目を合わせようとしてくれなかった。 「もういいよ……」  しょげかえるように言った男性社員の口調と、直後に社内をつんざいた事務員の悲鳴、それから目の前にあらわれた包丁の刃のきらめきを、響子はいまだに忘れることができない。  立ちすくむ響子を男性社員が刺すつもりだったのか、それともただ脅しつけるだけだったのかは結局わからずじまいだった。ただならぬ事態を前に、それまで二の足を踏んでいた同僚たちがいっせいに彼を押さえつけたからだ。  あわや刃傷沙汰となりかけたこの一件は、男性社員の逮捕というかたちで幕を閉じた。  そして響子も、社内での大捕物と将来有望な若手社員の免職の原因として、広報部を去らねばならなくなった。  この人事異動は事実上の左遷にほかならず、さすがの響子も不服を申し立てた。  彼女は集まった重役の面々にも臆することなく、普段からこの男性社員につきまとわれていたことや、それを相談しても誰一人とりあってくれなかったことなどを懸命にうったえた。  だが彼らは昇給を餌になだめようとするばかりで、決定をくつがえそうとはしなかった。  こんな騒動を起こした君をおいてやろうというのだから、それを感謝すべきではないか。  重役たちは暗に響子にそう言っていた。  会社が響子を辞めさせなかったのも、社会的信用を脅かすこのスキャンダルを静かに葬り去るためだったのだろう。会社を追われて失うものを無くした人間が、自暴自棄な行動に出ることも懸念したのかもしれない。  だが響子は、会社に危害をくわえようなどまったく考えていなかった。ようやく見つけた自分の居場所にとどまること、ただそれだけが彼女の望みだった。  人事の決定はとうとう最後までくつがえることはなかった。行き場をなくした響子は最終的に総務部へまわされることになった。  会社は彼女を野放しにはせず、手元に置いて見張ることにしたのだ。社会という、自由に羽ばたくことができた大空は、一転して巨大な鳥かごになっていた。  響子は広報部の信用を著しく失墜させた張本人として、好奇と軽蔑の視線をあびなくてはならなかった。彼女が自ら会社を去るのも、時間の問題に思えた。
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