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菰田響子は、その日も会社で上司の叱責をうけていた。
どうということはない。海外顧客への返信メールを添削してほしいと頼まれた響子は、そのほんの一部分……手紙でいう追伸にあたるようなところでタイプミスをしたのだ。そんな下書き段階での些細な理由が原因で、彼女はかれこれ三十分近くもオフィスで働く二百人の同僚たちの目にさらされたまま、上司から粘着質な小言を浴びていた。
「大学で英語を専攻してたかなんだか知らないけどねえ」
舐めまわすような視線で見つめてくる上司の手の中で、マグカップの冷めた煎茶が波をたてる。
響子はただ俯くだけだった。この上司が口ごたえを……とりわけ小娘同然の部下からの口ごたえを嫌っていることをよく知っているからだ。
弁解を重ねたところで報われることはない。
そもそも上司は公然と羞恥にさらされた響子が、その憂いを帯びた表情でじっと耐えるのを見るために、わざわざ揚げ足とりのようなことをしているのだ。
「以後気をつけてくれよ」
ようやく解放された響子は、とぼとぼと自分のデスクへと戻っていった。道すがら、多くの男性社員たちから同情の視線を投げかけられ、さらにそのうち数人からは気遣わしげに声をかけられもした。
だがそこからも、上司ほどあけすけなものではないにしろ、ある種の劣情が見え隠れしている。
同僚の男性社員たちのほとんどは、響子とお近づきになろうとしていた。彼女と親しくなり、悲壮感の漂うこの美しい女性と恋人同士となることで、愛情と称した欲望を満たそうとしている。
まとわりつくような視線から、響子はそのことを簡単に想像できた。彼らが自分の魂胆を必死に隠そうとすればするほど、その欲望は手にとるようにわかった。
会釈をしながらようやく席に戻った響子は、やりかけの仕事にふたたびとりかかった。だいぶ遅れたが、巻き返せないほどではない。他の女子社員たちのように無駄なお喋りに興じることなく黙々と作業をこなす彼女は、仕事が早かった。
「コモ!」
うしろから声をかけられた響子はゆっくりとそちらを振り返った。そうしなければ、暗い表情を取り繕う前に相手と顔をあわせてしまいそうだったからだ。
響子を呼んだ声の主……全てが過去となったいま、相手の名前を思い出すこともできないので、ここではアンスリウムとしておく……は背もたれに片肘をつき、制服のスカートから悩ましげに伸びる足を組んで椅子に腰かけていた。額にかかった髪をかきあげると、太陽のようなきらめきをともなって美しい顔がのぞく。反対の手にはクリップで止められた書類の束と角型封筒を持っていた。
「朝から大変だよね。ま、気にすることないよ。あんた課長に好かれてるから、愛情の裏がえしだと思ってさ」
そう言うアンスリウムの声には、響子を気遣う様子はひとつもない。むしろ、彼女が見舞われた災難を楽しんですらいるようだった。
そんなアンスリウムのとげのある言い方に対しても、響子は困ったような微笑みを浮べて頷くだけだった。この華やかで美しい同僚もまた、口ごたえすべきではない相手なのだ。
いや、ある意味ではこのアンスリウムこそ上司以上に逆らってはいけない人物だった。
「ところでさ……」アンスリウムが書類を軽く振る。用紙が乾いた音をたてるたび、響子の胃は重たくなった。「急ぎの仕事があるの。手伝ってくれない?」
いちおう訊ねるような口調ではあるものの、その背後には有無をいわさぬ威圧感が漂っていた。
響子がふたたび頷くと、アンスリウムはなかば押しつけるようにして書類を手渡してきた。
「サンキュー。それからこれ、午後のメール便にまわしといて」アンスリウムはそう言って封筒も渡してきた。「今日はあんたが当番でしょ」
実際には当番でもなんでもないにもかかわらず、総務内でやりとりするメール便の管理は響子一人に任されていた。同僚の誰もが、メールセンターの窓口がある暗くてじめじめとした地下には行きたくないのだ。「あんたはあそこの男どもにモテるから」というのはアンスリウムの言である。
増えた仕事ごと終わらせようとパソコンに向きなおる響子に、アンスリウムからまたぞろ声がかかる。
「ねえ、今日一緒にランチ行こうよ。手伝ってくれたお礼にさ」
これにも響子が大人しく応じると、アンスリウムはようやく自分の机に戻って他の同僚とのお喋りに興じはじめた。背後で交わされる会話を耳から締め出そうと、響子は目の前のパソコンへと余計に意識を集中させた。
上司がアンスリウムのお喋りを咎めることはない。そもそも彼女が響子に対して嫌がらせ同然の接し方をしていることにすら頓着する様子もない。迂闊に首を突っ込んで、管理責任を問われるような事態に陥りたくないのだろう。
また、響子自身も上司に直談判をすることもなかった。戦うことよりもじっと堪えることを選ぶ人間だったからだ。それに彼女は、部署内どころか会社全体から腫れ物のように扱われていた。
こんな境遇に対して、響子も悔しさを感じなかったわけではない。だが、彼女にはその感情を押しこめてでも会社にしがみつかなくてはならない理由があった。
幼い頃に両親を、それから高校に入ってすぐに育ての親である祖母を亡くして身寄りがなかった響子には、社会人三年目でありながら、大学を通うために借りた奨学金の返済義務がいまだについてまわっていたのである。
もともと働いていた広報部から総務部へとまわされた響子の風当たりは強かった。
異動の理由が人伝に歪められてしまったというのもあるが、この会社の花形である広報部にいた人間へのやっかみもあったのだろう。特に男性からの人気の高い響子に対して、同僚の女性社員からは嫉妬心までもが上乗せされていた。
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