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「ちょっとコモ、遅いよ!」  前を歩くアンスリウムに急かされ、響子は物思いから我にかえった。  当のアンスリウムは怪訝そうな表情を浮べたものの、取り巻き二人を従えて昼のオフィス街を歩いてゆく。  気が進まないまま、響子はそのあとを追った。 「菰田さん、大丈夫?」  声のしたほうを見ると、アンスリウムのグループでありながら、響子とおなじく小間使いのような扱いを受けている同僚が横に並び、気遣わしげな視線を送っている。  アンスリウムと同じく、いまとなっては彼女の名前も思い出せない……ここではミムラスとしておく。  ミムラスは小柄な体格と少女のようなあどけなさの残る顔立ちで、態度にもどこかおどおどとしたところがあった。響子はそんな彼女を見るたび、怯えた小動物を思い起こさずにはいられなかった。 「大丈夫?」  ミムラスにもう一度問いかけられた響子はこくりと頷いた。同年代の他の女性と比べて長身の響子と、小さなミムラスの視線とが空中で交わる。  響子は知っていた。彼女が総務部へやってくる前は、このミムラスがアンスリウムたちの標的にされていたことを。そして響子がグループの最底辺に組みこまれたことで、ミムラスの序列がひとつ繰り上がったことを。 「お昼、もし行きたくないなら、わたしから話しておこうか?」  そう訊ねるミムラスだったが、顔には明らかに不安がよぎっている。その予想に違わず、響子が行く意思を伝えると、彼女は安堵の表情を浮かべた。  ふたりのいじめられっこは気の進まない態度をひた隠しにしながら、ふたたびアンスリウムたちのあとをついていった。  気持ちが沈んでいても、人間の感覚とは正直なものである。実際のところ、この日の昼食は格別だった。  ヨーロッパ各地で武者修業を積んだ新進気鋭の料理人が、満を持して開いた店だという。  そのふれこみのせいか予約も半年先まで埋まっているそうなのだが、アンスリウムはどんな手段を使ったのか、人数分の席を確保してくれていた。  彼女がここまでするのは同僚への思いやりからではなく、これだけのことができる自分の力を誇示するためなのだろう。本人がその気持ちを隠そうともしないので、その思惑が手にとるようにわかる。 「それじゃあお化粧なおしてくるから、支払いはお願いね」  食後ややあってアンスリウムは響子にそう告げると、取り巻きたちを従えてトイレへと消えていった。彼女たちは自分たちの代金を置いていくどころか、財布を出す素振りすら見せなかった。  残された響子はしばし俯いたあと、伝票を手にレジへと向かった。  高級店の……それも自分を含めた五人分の料金に、響子の胃は食後の余韻を楽しむこともできずに深く落ち込んだ。  これこそが、奨学金の返済が滞る悪習であった。  アンスリウムたちはことあるごとに響子を昼食に誘うと、必ずといっていいほど支払いを押しつけてくるのだった。  響子もまた、この理不尽なあつかいに黙って従っていた。  広報部からの異動の際、とある理由から彼女の給料は特別に上げられていた。結果として金銭に多少の余裕はできたのだが、それをどこからか嗅ぎつけたアンスリウムたちがたかってくるようにもなったのだ。  支払いを断ることも、ましてやアンスリウムたちとの縁を切ることも響子にはできなかった。下手に逆らおうものなら、彼女たちからどんな仕打ちをうけるかわかったものではないからだ。  ならば貯金と奨学金の返済を犠牲に、横暴な同僚たちを満足させておいたほうが、かえって波風も立たずに済む。  これ以上借金が膨れ上がらないだけまだいい。そう言いきかせることで、響子は自分を納得させていた。  自分は孤独になることをとても恐れている。響子はときどき、ふとそう思うことがあった。  アンスリウムたちは響子に友情や愛情を感じてはいないのだろう。それどころか、彼女たちが自分を利用しているのも知っている。  それでも誰かの目にとまり、声をかけてもらえるということは、彼女にとってなにものにも代え難いことだった。その代償に惨めな日常を送らされるのも仕方がない、と受け入れさえもしていた。  会計を払おうとする横合いから手が伸び、響子は思わずそちらを向いた。  ミムラスが自分の財布から抜きだした紙幣を、ちょうどレジカウンターのキャッシュトレイの上に置こうとしているところだった。 「わたしの分だけでも払わせて」ミムラスは言った。  響子が断ろうとすると、俯いたままではあったが、彼女はきっぱりと首を横に振った。 「いいから……でも、みんなには黙っててね」  それからミムラスは店員に会計を促すと、顔をあげて強引な態度を詫びるように響子を見つめた。
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