戯言その1 非自己なる自分

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戯言その1 非自己なる自分

 例えばあなたは菜食主義者だったとしよう。そして自分からそのことを、大々的に発信しているとしよう。すると、望んでもいないのに、多くの議論が巻き起こり、あなたはたちまち渦中の人となる。  この場合、あなたは自身のイデオロギーを信じ続けるために、それらの議論に勝つ必要がある。というよりは、信じ続けたいから、勝とうとするだろう。  もちろん議論で勝った場合は問題ない。素直に祝辞を送ろう。しかし、想定しておくべきなのは議論に負けた場合、もしくは負けそうな場合だ。 往々にして、議論で負けそうになると、あなたは相手から自身の人格を否定されている感覚を受けると思う。 そしてその感情の制御に自身の精神的リソースの大部分を割くことになる。これが議論の敗北を誘引することは想像に難くない。あなたは議論相手からの人格否定によって負けたと無意識に考えるようになる。 「負けた」ことに対する悲しみは、時間と共に「私は悪くない」といった自己擁護へと変質していく。そして、これの最終産物は、議論相手への無制限な怒り、憎しみ、恨み辛みなのである。    その勝敗は捨て置いて、あなたの議論が決着をみたのなら、一旦冷静になって考えてみるといい。 実際のところ、議論相手が否定しているのは、あなたの持つイデオロギーや意見そのものであって、あなた個人の人格を否定している訳ではない。議論相手の人格を否定することは、議論において禁じ手であり、議論という論理的プロセスから逸脱しているからだ。  ではなぜ、あなたは自身の人格を否定されたかのように感じるのだろうか。 そして、相手が人格を否定していないことを頭のどこかで分かっているのに、心で理解できず、「怒り」を感じるのだろうか。  その原因は「思い入れ」にある。あなたは自身の意見やイデオロギーを「獲得」するまで、紆余曲折を経たと思う。そしてそのプロセスを含めて、自身のイデオロギーを信じている。 ここには、ただ、「信じる」「信じない」といった二項対立的選択以上の判断基準がある。これが「思い入れ」だ。 裏を返せば、紆余曲折を経ずに得た意見や思想に大した思い入れは湧かないのだから、それを大々的に発信することはないのだろう。  然るに、あなたは自身の意見を、思想を愛しているのだ。だからその、「愛しているものごと」について争いが起こると、意地でも勝ちたくなるし、負けた時、とてつもなく悔しいのだ。 ひそかに思いを寄せている異性のことを友人が酷評し始めた場面で、あなたはどう振る舞うだろう。きっと感情的に「そんなことはない」などと言いながら立ち上がり、反論するのではなかろうか。それと同じだ。  では「愛している」ことは、議論に負ける原因なのだろうか。 自身の思想や意見を愛すること。それは間違ったことではない。あなたの意見や思想の一つ一つはその大小に関係なく、自身の心が育ててきたものである。言い換えると、それらはあなたという「自己」が形成されるまでの歩みそのものであり、「精神的歴史」だということだ。それを愛さぬことは、自身の過去を、そして現在の自身を愛さぬことに等しい。 勘の良い読者なら見えてきたのではないだろうか。  この議題は根本に問題があるのだ。あなたは、自身が菜食主義者だと「大々的に発信」することで、愛すべき自身の心髄を、自ら外にさらけ出し、攻撃されるような無防備を呈している。 恥部をさらすに等しい行為だ。 だからあなたは理論的な議論ができず、情緒的に物事を捉えてしまう。  そこでだ。これから自身の愛する「過去」を、SNSやらで発信しようとしているあなたには、一回だけ自問自答して貰いたい。 「動物園に展示される覚悟があるかどうか」と。 展示されることに抵抗や屈辱を感じず、飯と住居に困らないから良い、と考えられるなら、特に止めはしない。 が、少しでも臆したなら、閉まっておくべきだ。それはあなたの「心の培地」であり、「財産」であるからして、本来、他者から干渉されるべきではない。  一方で、既に発信したあなたは、どうなるのか。安心して欲しい。この言葉さえ思い出せれば何も恐れることはない。 「つむじが見えているか?」 「背中が見えているか?」  あなたが議論で負けるのは相手に比べて論理的な思考ができていない証拠でもある。そして論理性の低下は「思い入れ」が原因だった。これに対する策は、自身の存在する「次元を捉える」という発想が与えてくれるだろう。 今あなたがいる次元は、同一時間軸を有すると考えてほしい。「現在の自己」は「過去の自己」と同じ次元にいるという意味である。従って、自身の意見や思想に対して、その獲得プロセスも含めて愛着が湧く。これは一種の自己愛と同じであって、人間の本質に起因するものだから、仕方がない。3日絶食すれば腹が減るのと同じだ。 つまり、「過去の自己を愛する」ことが「思い入れ」を惹起する直接要因だと説明できる。ならば、次のような対処方法が見えてくる。 議論する時、「過去の自己」を見えないようにすればよいのではないだろうか、と。 そこで重要になってくるのが「中枢」である。 中枢が如何については後で述べるとして、まずは具体的な扱い方を紹介しよう。「過去の自己」を見えないようにするためには、自身の中枢を1つ上の次元に押し上げる。こうすることによって「現在の自己」を、「過去の自己」について議論している「自分」と完全に分離できる訳だが、同一次元内で「現在の自己」を自分から切り離すことは難しい。そこで「自己の代わりとなるもの=中枢」を違う次元に分離するのである。 違う次元に分離された「中枢」は「自己」ではない為、「過去の自己」に愛着が湧くことはない。自己を愛せるのはあくまで自己なのだから。つまり中枢とは、「感情を伴わない人格」といったところだ。「どんな状況でも論理的思考のみ行うが、その思考回路にその人の独自性がある状態」と定義できるだろう。これを一つ上の次元に分離する。と言っても、我々は自身の次元の、その一つ上の次元を知覚することはできないので、「仮想次元」を創り、そこに自身の「中枢」を昇華させる形になるが。 ではどのようにすれば仮想次元に昇華できるのだろうか。 ここで上に紹介した言葉を思い出してほしい。 あなたは自分の「つむじ」や「背中」が見えるだろうか。もちろん鏡や窓ガラスの反射を使ってはならない。スマホで撮影などもっての他だ。 そう、自分では決して「つむじ」や「背中」見ることはできない。つまり、これを見ることができるのは「自己」以外である証拠なのである。 また、人間の脳は騙されやすいのか、たとえ自分の後姿を「見て」いたとしても、その「観察者」たる自身のことを「自己」として認識できなくなるらしい。 これを逆手に取ることで自身の「中枢」と「自己」を分離できるのだ。  まとめよう。あなたが議論で傷つくのは、「自己」を用いて議論しているからである。議論に必要なのは「中枢」だけでよい。  こう書くと、「では議論はコンピュータにさせればいい」とか「人間の議論は人間性を伴うはずだ」といった意見が出るのではないかと思う。なので「中枢」についてもう少し説明しておこう。「中枢」は前述した「自己の代わりとなるもの」以上の意味合いを持つのだから。  人は必ず他人と異なる物理的経験を通して時間を過ごしていく。毎日同じ道で、同じタイミングで登下校していた2人がいたとしても、彼らは同一座標上に存在していないので、異なった物理的経験をしているといえる。 従って、論理的思考によって導き出される結論が同じだとしても、「その思考回路には独自性がある」。これが中枢とコンピュータの違いである。要するに、「その人の論理的思考を抑制する内的要因のみが失われた状態」を「中枢」と呼ぶのであり、これを作り出せているかが議論で勝つに当たって重要なのだ。 従来の「心」とはまた違う、「中枢」という捉え方。自己を敢えて認知しないことで「非自己なる自分」を生み出し、「客観的な」観測点とする―。 このマインドセットがあなたの世界に平和をもたらしますように。  
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