クライスラーを聴きながら

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クライスラーを聴きながら

【前奏曲】 「さっきは、ごめん」 その一言が言えなかったばかりに、もう二週間も話していない。 君が隣に居ることに慣れすぎてしまったのかな、もう駄目なのかい…… 初めて会ったのは、音楽教室主宰のクラシックギター発表会だったね。僕が演奏したS・L ヴァイスの『Fantasie』を誉めてくれた。 LINEに招待され、お互いの身の上話から始まり、過去に観た映画の話、好きな小説や詩を紹介しあった。君のフェイバリットソングはクライスラーの『前奏曲とアレグロ』 驚いたよ。こんなにも感性の合う女性は初めてだったんだ。 隣県でそう遠くない距離。すぐに会う約束を交わした。 約束の時間より早く着いてしまったが、君は既にそこに居た。 夏の日差しを避け、木陰のベンチに腰をかけてスマホを覗いている。うつむく横顔に時折木漏れ日が射し込むと、遠目からでも白く艶やかな肌を確認出来た。顔を上げた君と目が合った瞬間、時間が止まったかと思ったよ。 カフェに入り話した。美しい君を前に、寡黙な僕がその日は自分でも驚くくらいおしゃべりになって、話せば話す程好きになってゆく。十代の頃の青くイノセンスで、甘く香しい時間が流れてた。 そのあと海までドライブしたね。 落日の海岸、一緒に防波堤の遊歩道を歩いた。 風になびく髪にそっと手をおき、うつむき加減で微笑む横顔…… 「どうしたんだい」 僕の問いに、君はゆっくりと腕を伸ばし、海に映る夕陽をみつめてこう言った。 「この光の小道はね、太陽に続く道。誰もが等しく導かれているの。ほら、歩いても歩いても、ずっとついてくるでしょ」 見慣れた光景が鮮やかな色彩をまとい、僕のこころを充たしていく。こんなことばひとつで世界観が変わってしまったんだ。 これからの人生を一緒に過ごせたら…… マチネの幕が静かに上がって行くような気がした。 クライスラーを聴きながら、瞳を閉じればいつもそこにいる。瞼に映る君はいつも笑顔なんだ、あんなに泣いた夜もあったのに。 「この川は 広くて深いの、わし座とこと座。天体が回るのってほんとにロマンチック、観ていて飽きないけど七夕に願ったの。一緒の夜はどうか、回るのを止めて下さいって……明日からまた寂しいよ」 今宵の上弦を君は見ているだろうか 見ていて欲しい、同じ月夜を……  ・・・・・・・ 「あぁすまない、慣れないものでね。取り乱してしまった」 「どうぞお気になさらずに、一時的な記憶の混乱でしょう。よくあることです」 「過去の記憶というのは自分の足あとを辿るようで……なんだか、あてにならないものだな」 「時間が経つと、都合の良いように脳が勝手に描き換えてしまうものですから。もう一度、チャレンジなさいますか」 「そうだな、もう一度同じ記憶でやってみよう。次は集中するよ」 【アレグロ】 プリンセスカット レール留め1.25ct PT950 幅3.5mm K18YG縁取り ホワイトゴールドと迷ったが、 変色を危惧したのと、婚約指輪ならやはりとプラチナにした。お互い初めてではないし、型にはまったものよりもデザインを重視して決めたんだが、はたして気に入って貰えるかな…… 日記サイトがきっかけだったね。 サイトメールで紹介したクラシックギター曲、S・L ヴァイスの『Fantasie』を、良い曲だったと綴ってくれてた。その後に君の好きなバイオリン曲、クライスラーの『前奏曲とアレグロ』を紹介してもらったんだが、すっかりはまってしまって……暫くはイヤーワームだったよ。 LINEに招待され、お互いの自己紹介や身の上話、過去に観た映画の話をしたり、好きな小説や詩を紹介しあった。 驚いたよ。こんなにも感性の合う女性は生涯を通じ初めてだったんだ。 隣県でそう遠くない距離。サイメを貰って3日後には会う約束を交わした。会話の中で大体の容姿は聞いたけど、会う前に写真交換はしなかった。お互い画像の先入観無しで会いたかったからね。 約束の時間より15分程早く着いてしまったが、君は既にそこに居た。他にも何人か女性が居たけれど君しか目に入らなかった。 夏の日差しを避け木陰のベンチに腰かけてスマホを覗いてる。うつむく横顔に時折木漏れ日が射し込むと、遠目からでも白く艶やかな肌を確認出来た。 この人であって欲しいと、心から願いながら近づく。 顔を上げた君と目が合った。 時間が止まったかと思ったよ。その眼差しに吸い込まれそうになり、僕は目を閉じた……一呼吸してゆっくり開けると、微笑みながら声を掛けてくれたね……嬉しかった。 カフェに入り話した。美しい君を前に、いつもは寡黙な僕が、その日は自分でも驚くくらいおしゃべりになって、話せば話す程好きになってゆく…… 十代の頃の青くイノセンスで、甘く香しい時間が流れてた。 これからの人生を一緒に過ごせたら…… マチネの幕が、静かに上がって行くような気がした。 別れ際、去りゆく君の背中に声を掛け、振り向き様そっと抱きしめキスをした。一瞬戸惑い肩を振るわせたけれど、すぐに受け入れてくれたね。 永遠を感じたのは、君も一緒だったはずさ。 あの日から 沢山の思い出がつくれたね…… 胸ポケットの中の、わずか10gにも充たないリングがやけに重く感じる。 今日僕は君に会う このリングを渡す為に会いに行く すべてを伝え、君の同意を得るために……  ・・・・・・・ 「ああ、良いおもいができた」 「それはよかった」 「今回は、記憶していた通りのものが観られたよ」 「嬉しい記憶はというものは、正確に記録されるものですから。時にお客様、次がラストオーダーとなります」 「もうじゅうぶんだ。いい夢を観させてもらったよ……ありがとう」 「この先の記憶を辿らなくても良いのですか」 「いいんだ……彼女は結局来なかった」 「さようで御座いますか……そうしますと、後味が悪うございましょう。嫌な思い出を残したままになりますが」 「いや、そんなことはない。私には良い思い出だった。あぁ、ラストオーダーということなら、その時が来るまでクライスラーを脳内に響かせてはくれないか」 「『前奏曲とアレグロ』でよろしかったですね」 「そうだ。小舟に揺られて聴くには、最高の選曲だ」 「かしこまりました。しかし、これもあくまで記憶なので、正確な旋律はお客様次第でございますよ」 「わかっている。たぶん、一音も外さず記憶しているよ」 「承知しました。クライスラーの『前奏曲とアレグロ』を」 「ありがとう」 「こちらこそ。それでは彼岸までの、最後の記憶をお届けいたします。良き旅立ちを」 【終】
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