猫になりたい

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 2 「ただいまー」  ラテー、帰ったよー、とワンルームマンションの奥へ呼びかける。  いつも以上の、ううん、いつもとは別もののくたびれきった声に心配をかけないか、心配。  でも正直、そこをあまりじゅうぶんに気づかえる余裕が、今はない。  どさっ、と着替えもしていない体をベッドに受け止めてもらう。  降ってかかる自分の髪の毛がうっとうしい。お風呂入るの、めんどくさいな……。  体を横たえたまま、ぼんやりと壁を見つめる。視界にない、ラテの毛づくろいする姿を脳裏でながめてうらやむ。  猫はいいな。お風呂に入らなくてよくて。  人間は不便だ。髪も体も洗わなくちゃいけないし、肌の管理もまめにしないとすぐに荒れ放題だし、化粧も毎日塗って落として。  仕事にも出ないと世間体的なものがいろいろめんどうだし、髪も定期的に染めないとみっともないし、ごはんもちゃんと食べないとすぐ貧血で動けなくなるし、毎月来るものは地味に重いし、彼に愚痴ばかりこぼしてたらあいそつかされてフラれるし。  じわ、と布団が濡れて起き上がる。  鏡で見るまでもない無残な目もとをごしごしこすって自分に宣言する。「男の人のことは、男の人から預かったお酒を、男の人のように飲んで忘れよう!」  流しの横の小さな食器棚、その一番上の棚へ後生大事に取っておいてる瓶を、アイスコーヒーのグラスとともに取り出す。  部屋のちっちゃなテーブルにふたつをどんっと置いて、まずい、と縮こまる。うちのマンションは壁の薄いことで有名で、物音をふくめやたら賃貸条件が厳しい。  恐る恐る周囲を見渡し――といっても自室の壁と玄関ドア、窓しか見えないんだけど――瓶の封に手をかける。  お酒好きの彼に預けられているナントカという高価なものらしく、家にあるとがまんできずに飲んでしまうから、という理由でうちに置いてある。  なにかお祝いするときにふたりであけよう、と彼は言い、私は、つきあって二周年の日に開封するつもりでいた。結局、彼の多忙が理由で、私たちは会えないまま記念日は過ぎてしまったけれど。  本当は返さないといけないのだろうけど、手切れ金代わりにあけてやる。  宝もののように丁重にあつかっていた彼とは対照的に、税抜き百二十円のペットボトル飲料ぐらいの気やすさで開封、グラスになみなみと注ぎ込む。  いつも注いでるアイスラテにはない透明感と琥珀色を新鮮に感じつつ、映画のマフィアのように高々とかかげる。 「失恋に!」  想像上の同志も声をそろえ「失恋に!」と高らかに唱えたあと、私は彼のお酒を一気に飲み干 「げぇほっ、げほっ、げほっ、ごほっ、げふぉっ」  まったく予想もしなかった焼けつくような口内の感触に、私は激しくむせ返った。  え、なに、これ。  口と喉が火でもついたような熱さ。とても人間が飲むものとは思えない。  思わず咳き込んでしまって、座卓も洋服も酒びたしだ。 「あーもう、洗わなくちゃいけないじゃない」  立ち上がりかけて、ぺたんとお尻を落とす。 「ま、いっか……。なんかもう、めんどくさいし」  拭き取りもせず、卓上に腕と横倒しの頭を乗せる。  目の前のグラスには、二割も減っていない高いお酒。捨ててしまうのももったいないしな……。  私はわりと貧乏性のほうなので、食べもの、飲みものがどうも粗末にできない。特にお高いものだとなおさら。 「うぇ……」  舌を出すぐらいにいかにもまずそうな顔で、無理してちょこちょこと飲む。飲むというかなめるに近い。いったい飲みきるのにどれだけ時間がかかるんだろう。  体じゅうが熱くなり、心臓がやたら速いペースで耳の中で鳴ってて、頭がくらくらする。  ちろちろと長時間、高価なお酒を飲み、いや、なめ取りながら、ぼぉっとした頭でふと思う。  あー、これ、あれかな。  もしかしたら、あれ、急性アルコール中毒とかになるやつ。  くらくらというよりはもうなんだろう、ぐるぐるといったほうがあってるほどに頭ん中が揺れて、回って、ああ、それでも世界は回ってるって言った有名な偉い誰かはきっとこのことを言い表したんだろうなあ、なんて、とりとめのない考えが浮かんでは消えていく。  いいじゃん、もう。  私なんか、しんだって。  彼からも、派遣先からも必要とされなくて……、不器用で、のろまで、失敗だらけ……。  人に迷惑ばっかかけて、怒られてばっかで……、人よりできることなんてなんにもないし、こんな役たたずなんかきっと、社会にいないほうがいいんだ。  こうやって、ひっそり、誰にも気づかれないうちにしんでしまったほうが、たぶん、世のため人のためなんだよ、ははは……。  ね、ラテもそう思うよね?  座卓にちょこんと鎮座する彼女を、にじんだ視界で上目づかいに見る。  私のぐしょぐしょの目は、不思議とくっきりクリアに、彼女の顔をとらえることができた。  ああ、そうだ。この顔、この面持ち。  人間(わたし)と違って、めそめそ、うじうじすることのない、いつでもクール、とらえどころのない無表情(ポーカーフェイス)。  そんな猫にあこがれをいだいて、ずっと猫になりたいと思ってた。  なにがあったって顔には出さず、涼やかに、したたかに、会社へ行くこともなく、世捨て人のように日がな丸まって眠る、そんなうらやましくてしかたのない、猫に。 「ラテぇ……私も猫になりたいよぅ……」 「私を猫にしてよぉ……」 「もう人間の生活はやだよぅ……」 「私は人として生きるのは向いてないんだよ、きっと……」 「猫になって気楽に、気ままに生きたいよ……」 「できないっていうんだったらいっそもう、このまま……」  卓上に投げ出した右の手の甲を、ラテはなめる。  ざらざらの舌で、丹念に、丹念に。  それはまるで、母猫が子猫をいつくしむような。  痛くって、でも、うれしくて、気持ちいい。  ――だめだよ、しぬなんて言っちゃあ。  そう言ってくれてるような気がする。  ――猫が気楽? 冗談はやめて。これでなかなか苦労が多いんだから。  そうぼやいてる気がする。うん、知ってる。  生きていることの実感を私に思い出させるためか、あるいは単に普段の本能的行動からか、 「いたっ。痛いってば、ラテ」  ふいに甘噛みに移ろう。  がじがじとそこそこの強度で噛んでくる。地味にわりと痛い。  甘噛みは適度な強さでほどほどにとお願いしてて、今ではちゃんとおりこうにやってくれるのに。 「わかった、わかったから。しにたいなんて言うのはもうやめるから」  ラテの牙がすっと引く。  わかればよろしい、と一度うなずいた、そんな気がした。  あいかわらずの無表情がじいっと私を見つめる。 「ほんと、あんたって子は手荒なんだから。これってDVよ、DV」  私は手の甲の歯型を見せつけ、ドメスティックなバイオレンスに抗議。ラテはあくびで受け流す。  自分は好きに噛みついておいて、私には責めないでアピール。  まったく、猫はずるい。なれるものなら私もなりたい。 「でもまあ、あんたのおかげでなんだかちょっとだけ元気になれた気がする」  不思議と体が軽くなった感覚に包まれてる。ついさっきまでぐったりしてたのに。どうして私、そんなにだるくなってたんだろう。  まあ、いいや。ちょっと気晴らしに散歩でもしてみよう。外はいいお天気だし。  あまり表を出歩かない私にしては、めずらしく体を動かしてみたい気分になっていた。せっかくの意欲が消えてしまわないうちに出かけようとしたとき、スマートフォンが鳴りだした。  かなりの大音量だ。耳をつんざくような甲高い電子音が部屋じゅうに鳴り響く。私、こんな大きな音に設定したっけ。というかスマホってこんな音量の音が出せるんだ。そんなありえない金切り声だった。
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