解熱

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 普通プロポーズというのは、指輪を相手に贈るのだろう。  僕の場合は違った。  僕は自分の右手で、志穂さんの左手の薬指の指輪に触れた。  僕の人差し指の爪の根本には、わずかにカラー剤が付着したままだ。  志穂さんの指は細いけれど、意外と骨張っている。爪は短く切り揃えてある。血管のわずかに浮いた手の甲と手首。  志穂さんの手指はとても志穂さんらしい。 「僕と手を繋ぐのが好き?」  志穂さんの顔を見上げる。  涙の残る瞳。 「好きよ。」  僕は確証がほしい。  次に会うときまで、志穂さんが僕を待っていてくれる保証が。  その先も志穂さんを失わないという保証が。  僕は右手の親指と人差し指と中指で、志穂さんの指輪を動かし始めた。  志穂さんの手に力が入った。 「確証がほしい。」  僕は口に出した。  それが、どんなにあてにならないものだったとしても。 「次に会うときまで、これを僕に預けて。」  これがどういう結果になるか分からない。  結果の分からないものに手を出して来なかった。 「時くん。」  志穂さんは手を固くした。 「こわいの。」  志穂さんの指輪はプラチナだと思う。  小さなダイヤが3つ並んでいる。シンプルだけど大人っぽいというより可愛らしい。  この指輪を初めて身につけたとき、志穂さんはいまの僕より若かったのだろうか。 「(とお)も違うのよ。」 「9才差だよ。」  こんなときなのに僕は嫉妬する。  葛藤も背徳感も自責感もなく、指輪を贈ることが出来たらよかったのに。  そして過去に、志穂さんにはそういう時代があったのだ。 「それくらいの歳の差のほうが、志穂さんを看取ってあげられるでしょう。」  志穂さんの手が震えた。  指輪の無い方の手、志穂さんの右手がその口元を覆い、抑えきれない嗚咽が指の間から溢れる。 「あんなに大きなお墓には、入れてあげられないけど。」  こんなときなのに僕はつまらないことを気にする。  ステレオタイプな思いつきと、しょうもないプライド。  夢や霞を食べては、生きられないのかな。  僕は自分の3本の指で、指輪を少しひねった。  指輪は動いて、第二関節で止まった。  ここから先に動かすには、ひねりながら、力をかける必要がある。  小さな子がわがままを言うみたいに、志穂さんはいやいやをした。  志穂さんでも、こんなふうになるのだ。 「先に、きたないおばあちゃんになるわ。」  こんなときなのに、かわいいなと思った。  志穂さんはほんとうは、臆病なひとなのかもしれない。 「時くんは選べるのよ。もっと、普通の。普通の恋愛や結婚だって。」  僕は普通で気楽な恋愛のエキスパートだったのだけど。 「白髪が出たら僕がやってあげる。僕はカラーが上手なんだよ。信じないの?」  小さなことから、信じられるだろうか。  志穂さんは裏切り者で、僕はやっと冬眠から覚めたばかりだ。
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