解熱

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解熱

 7番の引き戸を開く前に、さやかちゃんが僕に従業員用のタブレットを手渡した。 「予約の電話のときにわたしを指名されたの。話があるって。」  予約はハヤテだった。  今日はひかりちゃんと来るのかなと思った。  例によってハヤテは僕のお店の女性たちを虜にしていた。  美容師を指名するのではなく、予約を取るための電話の相手を指名するというのは、変わっている。  最近は電話でなくアプリで予約が入ることが多いのだし。   「この時間に、他に絶対に、時田くんのお客さまを入れないでってハヤテくんに念押しされたの。」  水曜日の午後4時。  学生街ではないから比較的空いている時間だ。  たまには、パーマやカラーのお客さんとカットのお客さんが同時間帯に入ってくることがあるけど。 「そんなわけにはいかない、とは言ったのよ。でも偶然は時田くんに味方してると思うわ。」  何だか腑に落ちない気持ちでさやかちゃんからタブレットを受け取った。  さやかちゃんの艶やかな爪が画面を指し示す。  新規のお客さま。  名前、年齢、住所、電話番号。  僕はタブレットを取り落としかけた。  ハヤテと墓地で話をしてから三ヵ月以上経っていた。  僕の胃はひりひりし続けて、麻痺してしまっていた。  待てるか、とだけハヤテは僕に聞いた。  しっかりしなさい、とさやかちゃんが僕の目を見た。 「脚と手の長いひと、だったわよね。」  僕はうなずく。 「しっかりしなさい。あなたたち、ふたりとも死にかけみたいな顔してる。」  さやかちゃんが引き戸に手をかけて振り返った。 「時田くんの顔、やつれたけど、最近の方が良いと思う。ほんとうだよ。」  引き戸が勢いよく開かれる。  部屋に入る瞬間に、時空が曲がるような感覚があった。
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