解熱

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 志穂さんの旦那さんは去年の5月にホスピスというところに入院した。  それは積極的な治療を行う病棟ではないのだそうだ。  緩和ケア病棟という。  死に行くひとが、入るところだ。  志穂さんは僕のベッドの上で、許容範囲を尋ねた。  その5月に。 「においに耐えられなかったの。」  志穂さんは両手を組んで、握りしめたまま声を絞り出した。  絞り出すような喉の震え方だった。  衰弱して、口からものが食べられなくなる。  尿を出すための管が入れられる。  僕は想像する。  35歳の衰弱した自分。  おむつをあてられている。  分からない。  想像できるとは、とても言えない。 「別のひとになってしまったみたいな、においなのよ。」  乾いてしまった口の匂いと排泄物の臭い。  ケアの手厚いところだったのだという。  志穂さん以外の誰も、そんな匂いに気付かなかった。 「考えていたのは、もうこのひととキスはできないって。」  志穂さんはチェアに沈んでいた。  下を向いた頭。  白々としたつむじが鏡に映っている。 「においに、吐いてしまいそうなの。このひとと二度とキスなんかできない、セックスなんか絶対できないって。」    志穂さんは顔を上げた。  鏡越しに目が合う。 「ヨガに通うことにしたのは時くんがいたからよ。わたし馬鹿みたいにそのことばかり考えてた。時くんに触って欲しくて、時くんをどうやって誘おうって、そればかり考えてた。」  志穂さんはとても静かに泣いていた。 「そういうふうに考えている間は、他のことを考えずにすんだわ。」  志穂さんは我慢強いひとだ。  僕に抱かれているときも、いつもほとんど声を立てずに静かに崩れ落ちた。  その姿が見たくて僕は志穂さんを求め続けた。 「時くんの部屋に行った日は、あのひとに口付けることができた。優しい気持ちになれたわ。これは必要なことなんだって思った。」  死の接吻。  僕は聞けなかった。  キスしてもいいか、と。  志穂さんは僕とは、しなかった。  僕は、僕に期待されていることにはなんと忠実だったのか。  志穂さんはチェアに座ったまま、自分を最後まで追い詰めた。   「わたしは、自分がこんなに残酷で卑怯な人間だとは知らなかった。」  僕は息を止める。
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