解熱

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 冷蔵庫の中のジップロックの袋を思い浮かべる。  冷え切った一本の髪の毛。  下着を身に付けた志穂さんは、ゾンビについて問いかけたのだっけ。  息をゆっくり吸って、ゆっくり吐く。  ヨガで大切なのはポーズの正解さよりも、呼吸なのだとハヤテは教えてくれた。  僕は息を止めないように努力する。  僕は逃げないだろうか。  死にかけた志穂さんを愛せるだろうか。  死にゆくにおいに息を詰めて、口付ける。  それは愛してるとは言わないのだろうか。  志穂さんはもしかしたら、まだ旦那さんのことを想っているのかもしれない。  僕はチェアを少しだけ回して動かした。  鏡に志穂さんの横顔が映る角度。  僕は志穂さんの脚の前にひざまづいた。  黒いワンピースは丈が長い。  志穂さんの脚を包み込んでいる。  天窓からの陽が志穂さんを連れて行ってしまうような気がして、怖くなる。  旦那さんのところに、志穂さんを引っ張っていかれてしまいそうで。  志穂さんの目元の影が深くなった。  下から見上げた顔というのは、ちょっとだけ年老いて見える。  老いて死んでゆくひとを愛せるだろうか、ほんとうに。 「志穂さんは、どうして今日、僕に会いに来てくれたの?」  僕は志穂さんの手に自分の手を重ねた。  痛いくらいに握り込まれた手に。  その瞬間の志穂さんの顔を僕は忘れないと思う。  志穂さんは目を逸らした。  だけど僕には志穂さんの横顔が見えたし、鏡には志穂さんの頭の後ろ側と、髪からのぞく耳が映っていた。  耳は朱に染まっていた。  志穂さんはいつだって落ち着いていた。  あっさりと服を脱いだ。  僕の目を見て、短く簡潔に話をした。  志穂さんはいつだって、僕よりずっと大人だった。  いま、志穂さんは小さな子みたいに縮こまっている。  むしろひかりちゃんの方が堂々としていた。 「会いたかったの。」  吹いて飛んでしまいそうな声だった。  志穂さんは唇を歪めてうつむいた。 「わたしは自分を壊すつもりだった。始めから。だけど時くんは、わたしを壊さなかった。」  志穂さんは泣いたりわめいたりするのだろうかと疑問だった。 「自分を浅ましいと思うの。」  愛してるとか好きだとか、僕は口にしたことはなかった。  志穂さんはそんな言葉を望んでいないと思っていた。 「でも、時くんに会うのをやめられなかった。」  今、口付けたら、きっと涙の味がするのだろう。  志穂さんの痙攣するような呼吸。 「時くんに、会いたくて。」
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