解熱

6/8
134人が本棚に入れています
本棚に追加
/60ページ
 僕は志穂さんの指をそっと開いていった。  志穂さんの膝の上。  握りしめて、握り込まれた指。  志穂さんの手のひらの下に僕の手を滑りこませる。  志穂さんの手はしっとりと汗をかいていた。  僕の爪は今日ちょっと色が付いてしまっている。  カラーの仕上がりを確認するときに、つい手袋を怠るし、手肌の上で色味を見たくなる。  志穂さんは僕の手を好きだと言った。  僕は、僕たちふたりの重なり合った手を見つめる。  身体だけで伝えられることというのは、どのくらいだったのだろう。  志穂さんの中にこもった熱を思う。  どれほどの努力で、このひとは全てを身体の中に抑え込んでいたのだろう。  愛してるとか好きだとか、僕は一度も口にしたことはなかった。  言わないように努力していた。  言葉と身体を一致させるというのは、なんて難しいんだろう。  志穂さんの喉が開いた。 「わたし引っ越しをしたの。住所とか電話番号とか、入力して、さっきの女の子に渡したの。」  怯えているかのような不安定なリズム。 「家で仕事をしてるの。スペイン語の。だから時くんの都合の良いときでいい。都合の良いときでいいから。」  もしも、と言いかけて志穂さんはつっかえた。  志穂さんもつっかえながら話すことがあるのだ。 「もしも。もしも、時くんがわたしに会いに来てくれる気があったら。」  志穂さんは立ち上がろうとした。 「もしも、そうだったら、連絡をして。」  僕は志穂さんの手を押さえた。    立ち上がろうとする志穂さんに、もう一度座ってもらった。  僕は先の見えないものに手を出すような人間じゃなかった。  これがどんな結果をもたらすのか、分からない。  志穂さんは僕のことだっていつか裏切るかもしれない。  僕は姿かたちの変わってしまった志穂さんを愛し続けられるか、分からない。    僕は確証が欲しい。  少なくとも今、誓えるように。  変わるものを見続ける勇気が欲しい。  失うことは耐えられないのだから。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!