第一章 爪の先の夏空

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 ふらふらと自分の椅子に座り込んで、そっと両手を広げてみた。  ……なんてかわいい瓶だろう。縦長の、でもラインが少し丸みのある瓶で、白いキャップ。キャップの頭には可愛らしい金色の模様。そしてその下には、青色のきらめき。  昔見たことがある、空中から撮影した海の写真。不思議と沖合のある一転で、色が濃く転じていて、深みのある碧色にかわっていた。その少し手前。まだ色が浅く少し緑みがかった場所と、深い碧がわずかにまじりあうところ。そこに、少し似ている青。キラキラと、陽ざしのように輝いているのはラメだろうか。  綺麗なマニキュア。  ……うんでも。どうしよう? 机の中にそっと入れておく? でも、誰かに見られたらどうするんだろう?  じっと、手の中のマニキュアを見つめるしか出来なかった。  青い碧いキラキラの。  ふと気が付くと教室に残っていた人もほとんどいなくなってしまっていて、わたしは慌てて立ち上がった。  やたら思いリュックを背負ってのろのろと歩き出す。手の中に、マニキュアを隠したまま。  玄関で靴を履き替えたときだった。ポケットの中のスマホが震えた。かおちゃんだ。 『まりもって野木のこと気になってんの??』  唐突な文面に驚いて反対に握ったマニキュアを握りこむ。 『ううん。寝てるなって、思っただけ』  反射的にそう返して、スマホをポケットにねじ込んで。  ゆっくりと玄関を出たときだった。視界いっぱいに、青が飛び込んできた。  昨日とはまた違う、抜けるような青い青い空。一足早く、夏を先取りしたような澄んだ空。  描きたい。  きゅうっと喉の奥が閉まっていく。描きたい。描きたい。この空を、切り取りたい。  どこかいい場所があるだろうか。教室に戻るべきか、それとも校庭の隅を拝借するべきか。  悩んだ時、ふと、ポケットの中のそれを思い出してしまった。  ――似ている、はず。  慌てて取り出して空に掲げると、空によく似た青色が太陽にきらりと反射した。  青いマニキュア。  でも少し、濃い……だろうか。――もし、かして。  それは好奇心だ。それから、探求心のようななにか。同時に膨れ上がったそれは、ちょっと止められそうにもなくって。  いけないこと、だとは分かっていたけれど。  そっと瓶のふたをねじるとあっさりと開いた。使いかけなんだろう。恐る恐る蓋を引き上げると、小さな刷毛が青い染料をいっぱいにつけて持ち上がる。瓶の縁で少し染料を落として、それから。  ――そっと、瓶を握る親指にひと筆はしらせてみた。  ……や、やっちゃった。  手が震えている。ああ。なんてことしちゃったんだろう。人のものを勝手に。しかも学校でマニキュアなんて。でも。  マニキュアのふたを閉じて、右手で握りこんで。震える手を空に掲げてみた。 「ああ……やっぱり」  思わず声が出てしまった。  空に伸ばした手の指先は、空と同じ青色をしていた。 「……きれい」  空が指先に宿ったみたいで、なんだか楽しくなってきてしまった。  ――うん。そう、だね。  いまさら、わたし、気づいちゃった。かおちゃんに、わたしさっき、嘘吐いた。野木くんのこと、やっぱり、気にならないわけがない。だってあんな格好をしていたんだもん。なのに、昨日と今日とこんなにも態度が違うんだもん。  ――気に、なるよ。  すうっと、息を吸う。リュックの外のポケットに、そっとマニキュアをしまい込んだ。スマホをもう一度取り出して、綾乃へスタンプを送信する。 『ごめん、遅くなるかも』  すぐ、いいよー、と返事が来た。  ああ、どうしよう。いいって言われちゃった。わたしいま、とんでもないことをしようとしていないだろうか。  でも、指先に宿った空が、熱を持ったみたいに急かしてくるから。  こんな気持ちになるのはほとんど初めてだった。走り出す。陽ざしが熱くて痛かった。暑い空気をかき分けるように、駅まで走る。もうすぐ、電車が出るはず。  電車に飛び乗って、乗り換えの駅で降りて、そのまままた走り出した。  あの路地にある白い店は、今日は夏直前の陽ざしにキラキラと、その白い壁を反射させている。指先のラメみたいに。  耳元で鳴り響く心臓の音を、何とか呼吸で閉じ込めて。  わたしは、店の扉をくぐった。  透明な自動ドアがすいっとひらいて。  そして、振り返った『彼女』が、笑った。 「お、来たね。ようこそまりもちゃん。FIRE*WORKSへ」  とびきり可愛い、野木くんだった。
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