第一章 爪の先の夏空

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第一章 爪の先の夏空

 放課後。学校から家の間にある大きめな駅は、わたしたちが寄り道をするときにいつも使うホームステーションだ。服を見たりすることもあるけれど、今日は駅から少し離れた画材屋にいた。息が詰まりそうなほどごちゃごちゃとした店内は、溢れるほどの色で満ちていた。 「まりもー、どしたん。なんか今日ずーっとぼーっとしてない?」  さらさらの真っ直ぐな髪をゆらしながら、かおちゃんが振り返ってきた。  どきっとして、手に取っていた絵の具を商品棚に戻してしまう。 「なんかあったんなら話聞くよ?」  そういうと、かおちゃんは綺麗に整えられた両方の眉がくっつきそうになるくらい眉間にしわを寄せる。 「ううん、なんでもないよ、ありがとう」  慌てて笑顔を作ったけれど、あんまり上手ではなかったらしい。かおちゃんはふうっとため息を吐くとわたしの頭を軽く撫でた。かおちゃんとは違って、ごわごわで硬い、ひとつ結びの髪を。 「なんかあったらいつでも言いなよ。かおちゃん様はいつだってまりもの味方だからね?」 「うん、ありがとう」  かおちゃんは同じ中学の出身で、高校になってもみんなから好かれている明るい子だ。それなのに、どうしてだか分からないけれど、中学のころからかおちゃんはいつもわたしと一緒にいてくれる。 「あ、ねえまりも。どう思う? やっぱこっちかなー」  かおちゃんは油絵具をふたつ手に取ってむうむうと悩んでいた。コバルトブルーと、コバルトブルーディープ。バイトもまだしていないわたしたちでは、買えるものにだって限りがあって、絵の具だって安くはない。 「まあどうせあとで買うんだけどー。たーかいー」  そう。どうせ悩んだ奴は後から買っちゃうんだけど、でもいまこの瞬間欲しいものを見極めるのが大変で、そしてその時間がわたしたちはたぶん、大好きだ。絵の具に飽きたら、今度は色鉛筆を物色する。こっちは油絵具よりずいぶん安いから、ふたりして何本かまとめてカゴに入れてしまった。  お互い紙袋を手にお店を出る。  すっかり雨はやんでいた。  薄い水色に白を溶かした空が広がっている。太陽は薄曇りの中ぼやけているくせにじっとりとした空気のせいでしっかりと暑かった。  閉じたままの傘と買ったばかりの紙袋を携えて歩いていく。 「まりも、描いてるんだよね?」  自販機で買ったジュースを飲みながら、かおちゃんが言った。駅構内の片隅のベンチで。  喉の奥に送ったばかりのソルティライチが変に引っかかった気がして、軽くンンッと咳払いしてしまう。ペットボトルの蓋を締めてから、うん、と頷く。 「描いてる」 「また一緒に描こうよ」  分かってる。かおちゃんは責めてるわけじゃない。ただ、親切心だ。それがわたしにはしんどいだけ。  かおちゃんと一緒に美術部で描いてた時間なんて中学一年のほんの数ヶ月だけだ。わたしは美術部で得られるはずの技術もなにも手にできないまま、辞めてしまったから。  かおちゃんは高校に入ってもまた美術部の扉を叩いた。わたしは、叩けていないままだ。叩こうとすらしていない。 「まりもー。あたし、まりもの絵めっちゃ好きだよー」  そんなこと言うのはかおちゃんだけだよ。
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