第一章 爪の先の夏空

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 いっそそう言おうかとも思ったけど、そうしたらきっとそんなことない! って反論がきそうで、それはそれで面倒臭そうで、結局あいまいに笑って流してしまう。 「まりも、好きなんだよね?」  絵を描くの。  そう、聞かれる。好き。どうだろう。好きなのかもしれないけれど、でも上手なわけじゃない。美術部にも入れていなくって、技術だって知らない。だから、色鉛筆で、誰にも見られずに描くのが精いっぱい。  そんなのは、好きなんて言っていいのか分からない。  あいまいに黙り込んだわたしに、かおちゃんは困ったようにまたわたしの頭をぽんっと叩いて、それで諦めてくれたらしい。飲みかけのペットボトルをリュックに叩き込んでスカートをはたいて立ち上がる。 「んじゃ帰ろっかー」 「あ……えっと、ごめん」  わたしが断る想定なんてしてなかったんだろう。きょとんとしたかおちゃんに、わたしは両手を合わせて言った。 「わた、わたしあの、用事」  ……まあ、嘘だけど。  駅から少し離れて路地に入る。それだけで、景色が一変する。  都会的で騒々しい表顔の駅側と違い、どことなく異国情緒すら感じる路地はわたしのお気に入りだ。  狭い雑貨ショップに、古着屋。カフェ。古書店もある。街灯も凝った形のおしゃれなもので、地面もアスファルト舗装ではなく色煉瓦が敷き詰められている。その路地を歩いていくと、ふと建物が途切れて視界が広がる場所がある。緩い坂道になっている突き当りだ。坂道を上がると住宅街になる。の路地の街並みはここまで。  オレンジ色の道路反射鏡がきらりと夕陽に反射する。  かおちゃんと別れて、わたしはそんな路地の奥に来ていた。時々、来る。この路地の端っこから、ごちゃついているような落ち着いているような、そんな路地の景色を見るのが好きなんだ。空はちょうど夕暮れ時で、赤と紫が雑にひと混ぜだけしたコーヒーとミルクみたいに混ざり合って空を彩っている。  きれいだ。  今朝の重く沈んだ灰色も、今の妖しいほどきれいな赤と紫も、同じ空。  空が好きだ。いろんな色を抱えていて、いろんな色になれるから。  スマホを空に向けてみたけれど、やっぱり上手く切り取れない。この目で見ている色の世界は、カメラに収めようとしても変わってしまう。  リュックをおろして足元に置いた。傘と紙袋も置く。リュックを開けて、スケッチブックと筆箱を取り出してみる。描けるかな。  少し悩んでから、黄色い鉛筆を取り出す。  そういえば。  ふと、思い出した。  今朝のとうめいな春の風。野木くん。今までもなんとなく視界の中で気になる人ではあったのだけど。だから名前も覚えていたのだけれど。それにしても、不思議な男の子だ。  人には色がある。元気なときの赤とか、悲しんでいるときの青とか、見えるわけではないけれど確かにそう感じるときがある。穏やかなんだろうなってときも、緑だったり水色だったり感じる。だから、あんなふうにとうめいに感じることははじめてだった。  なにも、考えてなかったのだろうか。失礼だな、わたし。なにも考えていなかった、かは分からない。たぶんわたしが、彼からなにも感じ取れなかっただけ。  まあ、話したこともないしね。  知らない人に感じる色は、ほとんどない。それでも、白っぽく感じたりはするけど、たぶんそれよりもっと、気配みたいなものが薄かったのだろう。べつに、いいけど。  シャッと、黄色い鉛筆を走らせる。
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