第一章 爪の先の夏空

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 そんな馬鹿な、とか。違うに決まってるでしょう、とか。  心の中のもうひとりのわたしが頻りに止めて来ていたというのに、わたしの口は感じた違和を、巣食ってしまった疑念を、止められずに零してしまっていた。 「……のぎ……くん?」  唐突なわたしの言葉に、わたしは自分で驚いて、あわてて口を手で押さえたけれどもう遅い。絶望的に遅い。何言っちゃってんだろう。どう誤魔化そう。意味分かんないよ、突然知らない人の名前出されたら、困るよね。  パニックになりかけた、時だった。  目の前の彼女は大きな目を二度、三度瞬いてから首を傾げた。さらり、と肩口を焦げ茶色の髪が滑っていく。そして。 「俺のこと知ってるの?」  ――明らかに低くなった声で彼女は……ううん、野木くんは、そう、言った。  女の子の、格好で。 「え、何知り合い?」  車いすの女性が、驚いたように言う。いや、いま一番驚いているの、たぶんわたしです。 「んにゃ、しらーん」 「知らんってあんたの名前知ってるじゃん。しかもこの格好で見抜いてんだから相当じゃん」 「確かに?」 「てーか、制服あんたの学校じゃん。クラスメイトとかじゃないの?」 「あ、ホントだ。制服だ」  えええ。今まで気づいてなかったんですか……?  驚きに硬直してしまっているわたしに、野木くん……くん……? はカラカラっと笑った。 「じゃークラスメイト? 名前は?」 「は、はい。片瀬……です」  今朝のことはどうやら欠片も覚えていないらしい。寝ていたんだろうか。一応起きてるように見えたけれど。それとも、ただ単純に、わたしが彼の意識の中に入れなかったほど存在感がなかっただけなんだろうか。 「片瀬なにちゃん?」 「片瀬真理乃、です」  かおちゃんが言う「まりも」はあだ名だ。こっちに引っ越してきてすぐの中学の時につけられた。剛毛癖っ毛なのにショートカットにしていたうえ、制服が深緑で、しかも今よりもしゃべることがへたくそでだまりこくっていた頃。クラスの子が悪意を持って「まりも」と呼び出した。かおちゃんは何故かそれを「かわいいじゃん!」と気に入ってしまって、いまだに「まりも」と呼ぶ。 「おっけー真理乃ちゃん。びっくりさせてごめんね。でもほら、かわいいっしょ?」  と、野木くんは手にしたマニキュアの袋をじゃらっと揺らした。  かわいい、が、何を指すのかが分からない。だってどう見たって、マニキュアより野木くんが……かわいい。  だからとりあえず、無言で頷いてしまった。野木くんは満足そうにうなずいて、ひらり、と手を振った。 「んじゃまた、ガッコで」 「え。あ、はい」  じゃあねーと野木くんは手を振ると、車いすを押しながら軽快に歩き出した。リズム良く左右に揺れるスカートの後ろ姿が遠ざかっていく。  いや、あの、えっと。  まだ理解が追い付いていないんです……けれども。  呆然とするわたしの視線の先で、野木くんたちは一軒のお店に入っていった。夕陽に照らされていまはオレンジ色になっているけれど、壁自体は真っ白な建物。  見送ってから、しばらくは動けなかった。夕焼けに赤く染まるその路地をぼんやりと見つめて、ポケットに入れたスマホが震えたことでようやく現実に帰ってこれた。  あ……まずい。結構遅くなってしまった。  いつの間にかその場に置いてしまっていたらしい、スケッチブックや色鉛筆をリュックにつめて。紙袋と傘を引っ掴んで、駆け出す。  路地を抜ける途中で、野木くんと車いすの女性が入っていったお店の前を横切った。  白い建物には、アンティークなアイアンプレートで小さく店名が飾られている。  黒字に金色の縁で、こう、書かれていた。 『Art-cafe FIRE*WORKS』
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