第一章 爪の先の夏空

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 半分以上混乱したまま、ただいま、と家の扉を開けた。安いアパートの二階。築二十年、2LDKの狭い我が家だ。玄関を開けるとすぐ、リビングからひょこっと綾乃が顔を出した。 「おかえりー、おねえちゃん。おそかったね」 「うん、ごめん」 「ごはん作っておいたよー。つってもカレーうどんですけども」 「ごめん、ありがとう」  いいってことよ、と綾乃が笑う。  ひとつ年下の妹綾乃は、いい子だ。明るいし、可愛いし、ちょっと勉強は出来ないけれど、そんなのは綾乃の魅力を損なう理由にもならない。  中学三年生。  受験生だというのに、家庭内でも病んだりしていない。まぁ、去年のわたしが酷かっただけ、なのかもしれないけれど。  綾乃がもう一度リビングへ戻っていくのを見送って、部屋へ入る。  二段ベッドと本棚とそれぞれのデスクとラックとチェスト。部屋の中は物がいっぱいで空間もほとんど残っていない。でも、落ち着いた。制服を脱ぎながら、細く長く息を吐く。  ……今日はいったい、何の日なんだろう。ハンガーに制服をかけながら反芻する。  朝のひとり時間を邪魔された。  かおちゃんはまたわたしに一緒に絵を描こうと言ってきた。  それから。  野木くんが妙な恰好をしていた。  ……いや、妙、ではない。ふつうだ。女の子としてなら。ふつうに、可愛い恰好だった。あの夜空みたいなチュールスカート、揺れるたびに色が変わっていてとても綺麗だった。  でも野木くんは、わたしが知る限り男の子だったと思う。  制服、男子のブレザーだし。スラックスだし、衣替え前はネクタイしていたと思うし。  でも今日の格好は、女の子だった。 「……」  制服をかけたハンガーをラックにしまってから、下着姿のままごつ、とおでこを壁に預けてしまう。わたし今日、なんかとんでもないものを見たのでは?  いや、とりあえず着替えないと。チェストからシンプルなTシャツとスラックスを出して身に着けていく。  野木くんのあの格好は、つまり、女装、ってやつだろうか。それともあれだろうか。最近よく耳にするLGBTとかってやつ。心の性別は女の子、ってやつなんだろうか。そんなのを、全然親しくもない――というか、彼にとっては知らないクラスメイトのわたしに見られたなんて、もしかしなくてもめちゃくちゃ大惨事だったりしないだろうか。  謝るべき?  いや何をどうやって。見てません? いや見たよ。気づいてません? 野木くんって言っちゃったよ。じゃあ、忘れますから、とか?  ……正直全然、忘れられる気がしない。 「おねえちゃん、そろそろごはん食べるー?」  リビングからの綾乃の声がわたしを現実に引き戻した。 「あ、うん、食べる!」  せっかく綾乃が用意してくれたんだ。いいタイミングで食べないともったいない。  お父さんは今日もどうせ遅い。また、二人きりの晩御飯だ。  リビングの隅にあるちいさな白木の仏壇にお線香を供えておりんを鳴らす。そうするわたしの横から、綾乃がお水と仏飯器をひょいっと置く。白米が乗るはずの仏飯器に今晩のごはんが乗っている。つまり、カレーうどん。 「……これはちょっとさすがにシュールじゃない?」
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