第一章 爪の先の夏空

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 デスクの引き出しの中には、貯めに貯めたイラストがそっと静かに眠っている。  後片付けもお風呂もおえて、綾乃はまだリビングでドラマを見ている時間。そっとわたしたちの自室に引き返し、デスクを開けた。  画用紙の束を底のほうからかきだして、見つけた一枚を手にする。  これは小学生の時に描いた絵。たしか、お母さんがまだ入院していて、その病室で。病室は病院の上の階にあったから、よく見えたんだ。  花火。  夏の夜に咲く鮮やかな光の花。  まだ拙い筆致で、それでも丁寧に描かれている。画面全部を夜空に塗って、持てる限りの色鉛筆を駆使して、病室から見た景色を切り取った。  引き出しの奥底に眠っていたこんなイラストを引っ張り出したのは、理由がある。  画用紙の右下。とても小さな字でこう書いてある。 「しょうらいの夢」  ふ、と唇が緩む。  思い出したんだ、さっきの綾乃との会話の中で。わたしだって、今まで一回も未来のことを考えたことがないわけじゃない。  あの日、確かに考えた。ちょうど、宿題の作文の題材が将来の夢だったあの日、お母さんと花火を見ながら話したんだ。  音もなく開く夜の花はどこまでも美しかった。  きれいだねぇ、と、お母さんが言った。  病室からもうずっと出れていないお母さんが、とてもワクワクしているような顔をしていて、それがなんだかうれしくて。 「ねぇお母さん」  わたしはあの日、こう言った。 「わたし、花火になりたい」  お母さんを喜ばせたい。  わたしのバカみたいな言葉におかあさんは目を丸くして、それからはじけるように笑った。 「とってもきれいだろうねぇ。でも、真理乃が花火になっちゃったら、お母さん困るなぁ」 「だって」 「うん、分かるよ。真理乃のやさしさ。でもね、真理乃の夢は真理乃のものだよ。真理乃の未来は、真理乃がちゃんと見つけて、歩いていかなくちゃね」  その時の言葉の意味が、言葉だけならともかくとして、いまだにわたしは租借しきれていない。結局、あの日から見つけられない夢とやらは空中でぽっかりと浮かんだまま、ぼやぼやしていて形になっていない。  将来どころか。  あした、かおちゃんに何していたのって言われてどう答えていいのかとか。  野木くんに会ったらどんな顔をすればいいのかとか。  そんな程度のことすら分からないんだから、わたしはまだふわふわしているんだ。  綾乃にちゃんと、なんて言ったところで、わたし自身が出来ていないんだから空虚な言葉でしかない。それでも綾乃は、わたしとは違う。お父さんも味方だし、学校の先生や友達や、みんなに好かれている。わたしとは違う。だからきっと、誰かが彼女を助けてくれる。  耳を澄ますと、リビングからドラマの感想を誰かと通話しながらはしゃいで語り合う綾乃の声が聞こえてくる。  いいな、綾乃は。どうしてあんな風に、可愛くて、元気で明るくて、いい子でいられるんだろう。  羨望が暗い何かに覆われてしまう前に、わたしは手にしていた花火の絵を引き出しにしまい込んだ。  あの日の、夢の続き。  お母さんはきっと気付いていない。  お母さんが長くないのなんてあの頃のわたしでも分かっていた。  あの日の気持ちは、このデスクの中でもうずっとくすぶったままだ。  ねぇお母さん。  わたし、花火になりたい。  お母さんを喜ばせたい。  喜ばせてから、綺麗な花になって、散って、消えてしまいたい。  お母さんのいない世界は、しんどいから。
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