十七 意識

1/1
前へ
/39ページ
次へ

十七 意識

 湯船に浸かってやっと、冷え切った体に気付く。  ここの風呂場は初めてじゃない。  絵を描いていて汚れるのは珍しくないし、傘を持っていない日に限って、僕はよく雨に降られる。  だから英介さんの善意で、僕の着替えがひと揃い置いてある。  着替えて画室に向かうと、話し声が聞こえた。 「借りが出来たって思わない?」  自信がそのまま音になったような声。  江角先生だ。  僕はそっと眼帯を着けてから、様子をうかがった。 「恩に着るよ」 「そう思ってるならモデルをやってよ。着衣でいいわ」 「当り前だろ。それに、一枚だけだ」 「日にちはそうね。毎週木曜なんてどう?」 「木曜は――」  僕がここに通う日だ。  思わず少し歩を進めた。 「言ってみただけよ。暇な日でいいわ」  英介さんは、僕の気配に気付いたようだった。 「久子。今日はもう帰ってくれ。坂上が困っている」  別に困ってなどいなかったが、気まずい思いはしていた。しかも、そう言われてしまったからには、これから更にそうなるに違いない。 「あら、こんにちは。相変わらず可愛らしいわね。坂上くん」 「こんにちは」 「木曜でもないのにここに来てるんだ。さすが、秘蔵っ子だけあるわ」  僕は、江角先生が苦手だ。  彼女の強さは、自分の認めたくない醜いところを、そして、足りない美しさを確認するようで恐ろしくて堪らない。  自身の底にある理由はわかっている。だからこそ、認められないのだ。僕は馬鹿で、臆病で、そして、きっとずるいのだ。  眼帯を着け直して良かった。  彼女の光は、眼帯をしない僕には余りに強過ぎる。 「久子。悪いが、坂上と大事な話があるんだ」  事実だが、言い訳がましく聞こえた。  彼女にではなく、僕に言い訳するような。 「はいはい、帰るわよ。お邪魔さま」  そう言いながら彼女は、目が合った僕に目を細めて、 「君も大変ね。こんな悪い男に捕まって」  と、ぼそりと呟いた。 「え?」 「逃げたくなったらいつでもいらっしゃいね」  彼女はいつだってわざと僕をからかう。  江角先生は少し、北原さんに似ているのかもしれない。  踊るように去った彼女を見送り、英介さんは溜息をつく。 「悪かったね」 「どうして、先生が謝るんですか。僕が帰れば良かったんです」  言ってみて自己嫌悪に陥った。  八つ当たりしたいわけではないのに。 「坂上。そうはいかない。まだ誤解は解けてない。まあ、座って」  言われた通りソファに並んで座る。  目を合わせなくていいことは、今の僕にはありがたかった。 「一昨日は大変だったんだろ?現場が騒がしかったから私も見に行ったが、まさか君たちだとは思わなくて」 「お祖父さまから聞いたんですか」 「昨日、休みの連絡があった時に、少し話した。大丈夫か?」 「それは――警察が調べてくれています」 「ならいいが、今日も必要なら送るか、迎えを頼むから」  いつもと変わらない、優しい先生だ。 「ありがとうございます。それより、どうして、あの絵を売ってしまったんですか」  緊張はずいぶん解れて、自然に切り出せた。 「この家が彼女の家の物なのは知ってるだろう。古い建物だから、修繕が必要でね。久子の両親は、修理より建て直しをしたいと言っていたんだ。別の物件に移動するようにしつこく交渉されていたんだが、久子は一緒に反対してくれたんだ。なんとか希望が通って、修繕だけでいいことになった」 「建物の修繕、ですか」  英介さんには長年の住居としても思い入れがある建物だ。 「ああ。だから月末までに、ここを空っぽにしなくてはいけない。君と小出くんの絵は、修繕中の預け先を探していたら、叔父に嗅ぎ付けられた。北原画廊が一番、君たちの作風に合っているのは認めざるを得ないから、買い取りではなく、仲介を条件に交渉させた。君が私を信頼してくれて嬉しかった。私の絵も、もう倉庫に運ぶことになっているが、君からもらった大事な絵と、君に売る約束をした絵だけ、久子に預かってもらったんだ。叔父には預けたくなくて」  僕は早とちりを恥じたが、英介さんはいつもの様に微笑んだ。 「そうだったんですか」 「昨日話せれば良かったんだが、事件のことがあったからね。それ以前に、決まるまで待たせてしまったけど、君ともしばらく休みにするか、相談しようと思っていたところだ」  さっき英介さんが笑っていたのを思うと、愛子ちゃんはもしかしたら、話の半分くらいは知っていたのかもしれない。 「坂上?」 「ごめんなさい」 「君に非は無い。こちらこそ、すまなかったね」  英介さんの余裕が、更に僕を焦らせた。 「先生を疑ってしまった」 「いいよ。ちょっとだけ傷付いたけど、それよりも嬉しかった。自分の絵がそんなに君にとって重要なのかと思うと」 「傷付いたって……」 「君が私より愛子を信じるものだから」  ああ、そうか。  僕は何度も否定する英介さんは信じないでいて、愛子ちゃんの言葉を優先したのだ。  自分に腹が立ったのと、問題が解決された安心感に、涙が僕の頬を伝った。 「啓?」  慣れない呼ばれ方をされたことに驚いて、目を合わせる。彼も驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを取り戻した。 「外した方がいい」  彼は僕の眼帯を外し、涙を拭った。 「泣くな。君は悪くない」  自分の身体が重くなるのと同時に、急に意識がぼやけていく。 「……啓?」  英介さんの冷たい手が僕の額に当てられ、ひんやりと心地好いその感触に目を閉じる。  今日はどうして、啓と呼ぶんだろうか。  ――悪い男に捕まって  江角先生の囁き声を思い出す。 「熱があるな。今日は泊まっていきなさい。標文先生には、伝えておくから」  そんな呟きの後は、もうはっきりしなかった。
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!

49人が本棚に入れています
本棚に追加