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十九 看病
「……ん」
目を開けて、ぼんやりと天井を眺める。
いつもの自分の部屋でないことに気付いて、先日襲われた時の記憶が脳裏に浮かび、飛び起きた。
「大丈夫か?水を飲んだ方がいい」
英介さんが椅子から立ち上がり、薄手の上着を肩にかけてくれた。
病院ではない。画室高梨の住居部分だ。
――ということは、英介さんのベッドだ。
「あ……先生、僕」
水を受け取るが、状況が飲み込めない。
ソファで話していた後、ぼんやりして、そこからの記憶は曖昧だ。
眼帯をしていないのに、右目の特性がいつも通り出ない。
英介さんの手が首に軽く添えられ、すぐに離れた。
「熱を出して、寝込んでいたんだ。雨で冷えたのが原因だろうけど、事件の心労とか、薬品の影響かもしれないし、長引くようなら医者に見せた方がいいね。標文先生には連絡した。とても心配していたよ」
「お祖父さまが……」
祖父が心配してくれたというのは、少し嬉しい気がした。
「明日は学校も休みだし、とりあえず今夜は僕の一存で泊めさせてもらうことにしたけど、良かったかな」
二階まで運んでもらった感覚がふわりと甦り、どうしようもなく動揺した。
勝手に誤解で押し掛けて、倒れるなんて。
「すみません、ご迷惑ばかり」
ひたすら不甲斐なくて、恥ずかしい。
風呂に入って着替えた後だったのが、せめてもの救いだ。
ゆっくり水を飲む。
「移動が負担なら、落ち着くまで何日でも遠慮なく泊まってくれ。たまご粥を作ったが、食べられそうか?もっと食べられるなら、おにぎりぐらいならできる。何か食べて、薬を飲んだ方がいい」
おにぎりやおやつは長い時間絵を描く時に、たまに出してくれることがある。近所の人から旬のものをもらった時などは、小出も僕もご相伴に預かる。
お粥は、初めてだ。僕のために作ってくれたのだと思うと、申し訳なさと感動とで、胸がいっぱいになる。
それにしても、いつもは「私」と言うのに「僕」と言った気がする。それにさっきは「啓」と呼ばれた。
北原さんや江角先生と話す時、不意に気を抜いた時しか見られない、英介さんの素の部分だ。
安心させるためか、英介さんは椅子をベッドの近くに寄せ、座りながら微笑んだ。
「お粥がいいです……お邪魔して、すみません」
「全然。心配をしなくて済むから、僕にはむしろ、ありがたいかな。うつる風邪じゃないだろうし。ここの修繕はまだ先だ。風邪が治っても、事件が解決するまでここから学校に通ってくれてもいいぐらいだ」
事件の心配を本気でしてくれているのはわかったが、それにしても、提案は僕に都合が良すぎて、気が引ける。
「そこまで甘えるわけには、いかないです」
「そこまでっていうのは、どこまで?全部、僕がしたくてしているから、断るにしろ、気にしないで」
いたずらっぽい笑みで体温計を渡され、もそもそと脇に挟み込む。
「先生……もしかして楽しんでます?」
訝しげな僕の様子を見て、英介さんはまた笑った。
「ごめんごめん。不謹慎だな。君は自分からあまり頼ってくれないから、堂々と面倒を見させてもらえるのが嬉しくて。汗がひどければ、着替えはそこにある僕のお古で我慢してくれ。まだ汚れる前のだ」
英介さんの服は、絵を描く時に汚れないようにと借りることがある。小出も僕も小柄だから、少し大きい方が着やすい。
あまり頻繁に借りるのも悪いと思い、自分の服でいると、そういう時に限って汚してしまって、自分の着替えを置かせてもらうことになったのだ。
今日は自分の着替えをもう使ってしまったから、甘えざるを得ない。
「……お借りします」
「電話をかけて、お粥を持ってくる。ちゃんと入る前に合図するから、ゆっくりでいい」
本当に楽しそうにそんなことを言われたら、断れない。
「ありがとうございます」
扉が閉まり、足音が聞こえる。
体温計を壊してしまうのではと思うほど、熱と動揺で鼓動が落ち着かない。
いつも名字で呼んでくれるのは、大人として扱おうとしてくれていたからだろう。
自分が年長者で立場が上なのをきちんとわかっていて、力関係で強制をしないように、慎重な人だと知っている。弟のように思ってくれているのなら、恋心を伝えることは、別れを意味する。
画家として送り出して、今より疎遠になることを望まれてしまったら――
小出に対しても、同じように紳士的で、親切だ。
和美は、どんなに英介さんが僕を好きでも、二十歳を過ぎるまでは絶対に言わないだろう。僕から言うか、僕が距離を置きやすい機会まで気持ちを隠し続けるつもりだと、勝手に予想していた。
僕も、もし本当にそうなら、彼はそうすると思う。
異性の同級生だったら話はもう少し簡単だったのかもしれないが、同性で、師弟関係で、僅かでも年の差があることが恨めしい。
逆に、自分が和美くらい強ければ、その条件はむしろ、強みになったはずだ。
熱のせいにして、伝えてしまいたい。
もう一度名前で呼ばれたら――何故そう呼ぶのかだけ、聞いてみよう。
それだけ決めて、英介さんの助言に従い、着替えることにする。
汗で濡れたシャツを脱いだところで、さっき見た夢を思い出す。
小出の様子も、猫の様子も、いやに現実的だった。
そういえば――小出の犬歯は大きいのだ。
英介さんにとうもろこしを出された時、器用に手で粒をもいで食べていて、感心しながら理由をきいたら、見せてくれた。
でも、あの犯人ほど尖った形ではなく、背も高くはない。小出は間違いなく善人だ。
無流さんに知らせるべきか悩んだが、熱が下がったら和美に話すことにした。
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