十九 看病

1/1
前へ
/39ページ
次へ

十九 看病

「……ん」  目を開けて、ぼんやりと天井を眺める。  いつもの自分の部屋でないことに気付いて、先日襲われた時の記憶が脳裏に浮かび、飛び起きた。 「大丈夫か?水を飲んだ方がいい」  英介さんが椅子から立ち上がり、薄手の上着を肩にかけてくれた。  病院ではない。画室高梨の住居部分だ。  ――ということは、英介さんのベッドだ。 「あ……先生、僕」  水を受け取るが、状況が飲み込めない。  ソファで話していた後、ぼんやりして、そこからの記憶は曖昧だ。  眼帯をしていないのに、右目の特性がいつも通り出ない。  英介さんの手が首に軽く添えられ、すぐに離れた。 「熱を出して、寝込んでいたんだ。雨で冷えたのが原因だろうけど、事件の心労とか、薬品の影響かもしれないし、長引くようなら医者に見せた方がいいね。標文先生には連絡した。とても心配していたよ」 「お祖父さまが……」  祖父が心配してくれたというのは、少し嬉しい気がした。 「明日は学校も休みだし、とりあえず今夜は僕の一存で泊めさせてもらうことにしたけど、良かったかな」  二階まで運んでもらった感覚がふわりと甦り、どうしようもなく動揺した。  勝手に誤解で押し掛けて、倒れるなんて。 「すみません、ご迷惑ばかり」  ひたすら不甲斐なくて、恥ずかしい。  風呂に入って着替えた後だったのが、せめてもの救いだ。  ゆっくり水を飲む。 「移動が負担なら、落ち着くまで何日でも遠慮なく泊まってくれ。たまご粥を作ったが、食べられそうか?もっと食べられるなら、おにぎりぐらいならできる。何か食べて、薬を飲んだ方がいい」  おにぎりやおやつは長い時間絵を描く時に、たまに出してくれることがある。近所の人から旬のものをもらった時などは、小出も僕もご相伴に預かる。  お粥は、初めてだ。僕のために作ってくれたのだと思うと、申し訳なさと感動とで、胸がいっぱいになる。  それにしても、いつもは「私」と言うのに「僕」と言った気がする。それにさっきは「啓」と呼ばれた。  北原さんや江角先生と話す時、不意に気を抜いた時しか見られない、英介さんの素の部分だ。  安心させるためか、英介さんは椅子をベッドの近くに寄せ、座りながら微笑んだ。 「お粥がいいです……お邪魔して、すみません」 「全然。心配をしなくて済むから、僕にはむしろ、ありがたいかな。うつる風邪じゃないだろうし。ここの修繕はまだ先だ。風邪が治っても、事件が解決するまでここから学校に通ってくれてもいいぐらいだ」  事件の心配を本気でしてくれているのはわかったが、それにしても、提案は僕に都合が良すぎて、気が引ける。 「そこまで甘えるわけには、いかないです」 「そこまでっていうのは、どこまで?全部、僕がしたくてしているから、断るにしろ、気にしないで」  いたずらっぽい笑みで体温計を渡され、もそもそと脇に挟み込む。 「先生……もしかして楽しんでます?」  訝しげな僕の様子を見て、英介さんはまた笑った。 「ごめんごめん。不謹慎だな。君は自分からあまり頼ってくれないから、堂々と面倒を見させてもらえるのが嬉しくて。汗がひどければ、着替えはそこにある僕のお古で我慢してくれ。まだ汚れる前のだ」  英介さんの服は、絵を描く時に汚れないようにと借りることがある。小出も僕も小柄だから、少し大きい方が着やすい。  あまり頻繁に借りるのも悪いと思い、自分の服でいると、そういう時に限って汚してしまって、自分の着替えを置かせてもらうことになったのだ。  今日は自分の着替えをもう使ってしまったから、甘えざるを得ない。 「……お借りします」 「電話をかけて、お粥を持ってくる。ちゃんと入る前に合図するから、ゆっくりでいい」  本当に楽しそうにそんなことを言われたら、断れない。 「ありがとうございます」  扉が閉まり、足音が聞こえる。  体温計を壊してしまうのではと思うほど、熱と動揺で鼓動が落ち着かない。  いつも名字で呼んでくれるのは、大人として扱おうとしてくれていたからだろう。  自分が年長者で立場が上なのをきちんとわかっていて、力関係で強制をしないように、慎重な人だと知っている。弟のように思ってくれているのなら、恋心を伝えることは、別れを意味する。  画家として送り出して、今より疎遠になることを望まれてしまったら――  小出に対しても、同じように紳士的で、親切だ。  和美は、どんなに英介さんが僕を好きでも、二十歳を過ぎるまでは絶対に言わないだろう。僕から言うか、僕が距離を置きやすい機会まで気持ちを隠し続けるつもりだと、勝手に予想していた。  僕も、もし本当にそうなら、彼はそうすると思う。  異性の同級生だったら話はもう少し簡単だったのかもしれないが、同性で、師弟関係で、僅かでも年の差があることが恨めしい。  逆に、自分が和美くらい強ければ、その条件はむしろ、強みになったはずだ。  熱のせいにして、伝えてしまいたい。  もう一度名前で呼ばれたら――何故そう呼ぶのかだけ、聞いてみよう。  それだけ決めて、英介さんの助言に従い、着替えることにする。  汗で濡れたシャツを脱いだところで、さっき見た夢を思い出す。  小出の様子も、猫の様子も、いやに現実的だった。  そういえば――小出の犬歯は大きいのだ。  英介さんにとうもろこしを出された時、器用に手で粒をもいで食べていて、感心しながら理由をきいたら、見せてくれた。  でも、あの犯人ほど尖った形ではなく、背も高くはない。小出は間違いなく善人だ。  無流さんに知らせるべきか悩んだが、熱が下がったら和美に話すことにした。
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!

49人が本棚に入れています
本棚に追加