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二十 魔力
「いらっしゃい」
若い男性客と談笑していた北原は、そっと入口を開けた無流に気付くと、そう声をかけ、優雅に会釈した。
「――出直すかな」
「急用ですか?」
引き返そうとした無流に歩み寄り、北原は小声でそう尋ねた。
「いや。今日は一段落したから、戻ってきた」
「愛子。お茶をお願いします」
「はい、叔父様」
いつまで経っても、北原の美貌に慣れない。だが、人柄の方がより魅力的だとわかってきた。話題も豊富だし、頭もいい。今いる客も、おそらく彼が目当てだろう。
無流は予想外に、何度も北原画廊に来ることになった。
連続傷害事件は被害者が多く、いくつかの班に分かれて動いている。そちらは、はっきり犯人はまだ目撃されていない。
坂上啓の襲撃事件に関しては、切られる前だから、切り取り魔かどうか、関連がはっきりしていない。連れ去る手口は同じだが、有力な目撃証言があることが逆に、関連性を疑問視されている。
ひとまず現場の重なる珍猫連続行方不明事件と関連付け、八重の取材内容を見直すことになった。あかつき日報の会議室を借りる手もあったが、現場からは遠い。そのため、倉庫の一部を北原の善意で借り、情報を集めている。
北原画廊には電話があり、敷地内に車も停められる。部下たちや、八重との待ち合わせにちょうどいい。
無流は夜間の電話番を兼ねて、図々しくもここに寝泊まりさせてもらっていた。
初めは疑っていたが、無流の見たところ、北原は犯人ではない。被害者の年齢とも合致しないし、右目は生まれつきの障害などではないという。事件との関わりは無さそうだと、無流が協力者として引き込んだ。
奥の座敷に先客を誘導して、北原が書類を取りに戻ってきた。
「今日は看板娘がおとなしいな。具合でも悪いのか」
「和美くんと結託して、英介と坂上くんを無理に進展させようとして、失敗したそうですよ。さっき坂上くんのお宅に電話をしたら、画室高梨に向かう途中、雨に濡れたせいで、坂上くんが熱を出して倒れたと。英介がそのまま、今夜は看病すると申し出たらしいんで、ある意味成功なのかな。放っといてもあの二人は、ずっとお互いしか見てないんですけどね」
愛子もそうなのだろうが、和美も小さい頃から早熟で、色恋の橋渡しが大好きだ。おかげで寺にも縁結びの御利益があるなんて噂されている。
無流と、自分の姉を引き合わせたのも和美だった。
「高梨さんは好青年だと聞いている。坂上くんに対して過保護なのは、和美もだが――和美が認めるくらいだから、お似合いなんだろう」
「英介は私には反抗的ですが、まあ、そうですね。過保護どころか、独占欲が強すぎて呆れます。坂上くんにはそういうところを隠してる。全く、ずるい男ですよ」
北原は珍しく拗ねたような顔で文句を言って、座敷に戻った。
二人は感性によって惹かれ合っているのだと、和美が言っていた。啓は純朴で奥手だし、高梨英介は紳士で、それらしいことはまだ何も起こっていないはずだが、二十歳を過ぎた啓が望めば、進展するだろうという予想だった。
無流はお喋りな義弟に呆れていたが、今回の事件のこともあり、啓が隙あらば拐かされそうだと心配する気持ちは理解した。
愛子が戻ってきてお茶を置き、ぺたりと座布団に座った。
先客に警官だと思われないために北原が指示したお茶なので、無流にかしこまる必要はもうない。
怒られたぐらいでは挫けない子だが、意図した以上に啓に迷惑をかけてしまったのを、後悔しているのだろう。
「なぁ愛子ちゃん。あそこにあった坂上くんの絵は?」
「坂上さんの絵は、さっきの方が買われたの」
「そんなにすぐ売れるもんなのか?」
「同じ学校の先輩らしいから、以前からのファンなんだろうけど、おうちがお金持ちなんじゃない?布袋様って、あの大きなお屋敷の、有名な建築家の息子さん」
「布袋?あぁ、成金通りの」
無流の言葉に、愛子はやっと暗い顔を崩し、けらけらと笑った。
「面白いこと言うのね」
「椎名がそう呼んでた」
無流の手柄にすれば、八重は怒る。正直にそう言ったら、愛子は更に笑った。
「ご本人は確か、少し離れた別宅に独り暮らしよ。確か、英介の画室の近くだったと思うけど」
「俺から見れば画室高梨も豪邸なんだよなぁ。で、今かかってる絵は?綺麗だが、坂上くんの絵より色が少ない」
ここにある美術品については、北原に解説を求め、ひと通り覚えた。愛子にもほぼ同様の知識があり、ここで店番をするには適任なのだとわかった。北原が厳しくするのは、大人扱いしているからで、彼女もそれを理解している。
無流は好みで語ることしかできないが、奇妙に思えた作品も、来歴や技法を知ると興味が持てるようになり、日々、感心している。
「あれは、小出伊知郎さんの絵よ。坂上さんと同じ、英介のお弟子さん」
「名前は和美の話でも聞いたことがあるな。凄い迫力だ。これはまた、ずいぶん幻想的な絵だが」
「神話の中の一場面だそうよ。ケンタウロスね」
半獣人というやつか。
弓を構えた、半身が馬の男が描かれている。馬の描写が特に写実的だ。
「ああ、わかった。小出動物病院の息子か。馬が写実的なわけだ。それにしても、画家になれる子はもう学生時分から、才能が見えるもんなんだな。俺も書道なら辛うじて和美に勝てるが、絵の才能は人並みだ。警官も本当に向いてるのかは、わからんが――自分の求める美を追求し続けるのは、大変だろうな」
愛子は何故かまた顔を曇らせて、うつむいた。
「無流さん、事件が解決したらいなくなっちゃうの、さびしいな」
「ん?なんだ、嬉しいこと言って。たまには寄るよ――こんな無粋な刑事が居座ったら、店の雰囲気が台無しだがな」
「高価なものには保険がかかってるけど、お金の問題じゃないもの。警察の人が来るのはむしろ助かるわ。諭介も無流さんと話してる時が一番楽しそう。ずっといてくれたらいいのにって思ってるはずよ。つきまとってくる変な人も結構いるし」
「おい嬢ちゃん、懲りないなぁ。俺たちもくっつけようって腹か?あの人なら美女でも美男でも選び放題だろ。下手すりゃ国が傾く。俺が釣り合うわけがない」
「茶道と書道と剣道ができて、着物が似合うじゃない。充分よ。お互い好意が自然だし。亡くなった奥さんを愛してて、再婚する気が無いのはわかってる。それに、諭介の方が歳上だけど――」
愛子がさらりと言った言葉に、お茶でむせそうになる。
「ちょっと待て。歳が上?俺はこう見えてまだ三十三だが」
無流は昔から実年齢より上に見られるが、北原は、高梨と無流の間くらいだと思っていた。
「今年、三十八になるはずだけど」
「あんな白磁みたいな肌で?嘘だろ」
「やだ、言わなきゃ良かったかな」
愛子がむせる無流の背中をさすってくれていると、奥から北原が様子を見に来た。
「大丈夫ですか?愛子、お水をご用意して」
「はい、叔父様」
背中をさすってくれようとした手をやんわりと制し、無流は涙目で北原を見た。
「あんたの方が年上だって聞いて――」
「え?でも、大して変わらないですよ」
「俺は完全に自分が年上だと思って、ぞんざいな口のきき方を……」
頭を下げようとした無流を、今度は北原が制した。
「無流さんを乱暴だと思ったことは無いです。初めはちゃんと敬語でしたし――変えなくていい」
「申し訳ない」
水を持ってきた愛子に、座敷の客の履き物を用意するよう言い付けると、北原は膝立ちで、無流の顔をいたずらっぽく覗き込んだ。
「それとも、私にぞんざいな口のきき方をして欲しいとか?」
「もちろん、それで構わない。呼び捨てでも何でも」
真顔で返した無流に、北原は珍しく目を丸くして驚いてから、愉快そうに笑った。
「それは、私が照れます。今まで通り、お互い楽な話し方にしましょう」
眩しい笑顔と、自分が言ったことに無流も恥ずかしくなって、美術品に目をやり、ふと思い出す。
「……そうだ。あんた、俺が初めてここに来た時、意味深なことを言ってたが、犯人に心当たりでもあったのか?――見当違いですが、無駄ではないかもしれないと」
確か、そう言っていた。
「ここには、幻想的なものや、人を惑わす魔性のものを好む人たちが訪れます。常に不穏な魔力が満ちているようなものです。不謹慎ながら、恐がるのではなく、好んで切り取り魔の噂をする方も多かった。だから、犯人の手掛かりが得られたり、本人が訪れる可能性が高いと思いました。私が狙われる可能性もね」
声を低くしてそう語った北原に、頷く。
「なるほど」
北原は思った以上にまともで、普通の感覚の人間だったが、この画廊の空気は確かに独特だ。
「私があなたの協力要請を受けたのは、そういうわけです。寝泊まりしてもらえることまで、期待はしていませんでしたけど」
電話が鳴り、愛子が応答する。
「無流さん、お仕事のお電話よ」
無流は気を取り直して、受話器を受け取った。
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