三十五 酔余

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三十五 酔余

 先に証拠を固められたおかげで事後処理は順調だが、渋井も布袋もまだ、弁護士と話し合っている。  未解決のまま終わるよりはずっといいが、被害者たちの傷は深い。  ひとまず区切りのいいところで班ごとに打ち上げと休息を許され、無流は志賀と瀬戸と軽く飲んでから、北原画廊に私物を取りに戻った。  住居部分の玄関にはまだ灯りがついていたが、鍵はかかっている。  引き戸を軽く叩くと、着流し姿の北原が迎えてくれた。 「お帰りなさい。お疲れ様です」  人を高揚させるだけでなく、美しいものには人を安心させる力があると、実感させられる。 「ご協力ありがとうございました。あなたや愛子ちゃんが無事で、本当に良かった」 「私も、心配しました」  まだ荷物をまとめていないので、話しながら部屋に向かう。 「愛子ちゃんはもう、帰っちゃったか」 「ええ。会いたがってましたよ」 「また顔を出します。お世話になりました」  部屋に着き、衣服をまとめながら改めて礼を言おうとすると、北原の目に捕まった。 「帰りを急いで、あまり飲まなかったんでしょう。良かったら私と飲みませんか。もっとゆっくり話したい」 「それは……願ってもないが」  話し足りない気持ちは無流にもある。  しかし、酔ってしまえば帰る電車が無くなるだろうと、時計を確かめた。 「もう一泊したらいい。明日も仕事でも、ここの方がゆっくり眠れますよ」 「明日は、非番です」  誘いに乗りたい気持ちと、これ以上甘えるのが申し訳ないという気持ちが同時にきて、ほろ酔いの頭を迷わせる。 「何か約束でも?お疲れでしたら無理にとは言いませんけど」 「いや、特に予定は……」  社交辞令というわけでもなく、本気で誘ってくれているとわかる。  話していて楽しいのは自分ばかりだと思っていたから、北原からも個人的な付き合いを望んでもらえるのは嬉しい。 「だったら、飲み過ぎても大丈夫ですね。私もそんなに飲めませんが、一人で飲むには惜しい、いい酒はある」  この目から逃げられる人間は、愛子と高梨ぐらいだろう。 「じゃあ、お言葉に甘えて」  無流がようやく頷くと、北原は嬉々として上着を取り上げ、満足げに笑んだ。 「なんなら、ずっといてもいいんですよ」 「ははは。あんたがそんなこと言ったら、勘違いされるだろ」 「あなたの勘がいいのは知ってます」 「は……」  冗談かわからず困惑していると、ゆるめたネクタイをするりと取り上げられ、上着と一緒に吊るされた。 「先にお風呂にどうぞ。何か肴を作ります」 「――ああ、はい」  北原はさっさと台所に行ってしまい、無流は気の利いた返し方も思い付かないまま、ぼんやりと浴室へ向かった。  風呂から上がり部屋に戻ると、無流が寝室として使わせてもらっている部屋にはもう、布団が敷いてある。  襖を挟んだ手前の部屋で、酒と肴の乗った膳を向かい合わせて、二人で酒を飲み始めた。  言える範囲での事件の顛末や、瀬戸たちの話、高梨に助けられたことなどを話しながら酒が進む。  お互い浴衣の裾が乱れるのも気にせず膝を崩し、会話を楽しみながら、久し振りの心地好い感覚に身を任せる。 「坂上くんの目は不思議だな。今回に限っては、あの猫の何かかもしれんが」 「私の右目から見える景色は像を結ばないから、少し羨ましい」 「あんたは眼帯よりも、髪で覆った方が過ごしやすいのか」  北原が右目を覆う理由は気にはなっていたが、軽々しい好奇心だけで立ち入ってはいけないと、時機を見ていた。  噂や他人からの伝聞ではなく、できれば本人から説明してもらいたい。楽な口調を許されたのをいいことに思い切って問うも、北原の反応を注視する。 「これは、ほら」  北原は髪を耳にかけ、顔の右側を見せながら、無流の方に寄ってくれた。  右目の水晶体は白濁しているが、瞼と眼球は逆の目と同様に動かせるようだ。外傷起因の白内障か何かだろう。  それから、この部屋の照明ではよく見ないとわからないが、額から右目を通って耳元までのびる、血管か木の枝のような痕がある。 「ああ――雷に」  落雷を受けた人間を、何度か見たことがある。雷撃傷とか、電紋と呼ばれる特徴的な火傷だ。 「そう。戦地でね。直撃は免れたが、少しの間心臓が止まっていたとか」 「それは、災難だったな」  北原が無流より年上だと聞いて、右目が理由か、身体が弱くて出征しなかったのだと思っていたが、戦地で負ったとは。  思わず傷に指をのばしそうになった自分に慌てて、誤魔化すように、ぐい呑みにわずかに残っていた酒をすすった。 「隊では、一度死んでよみがえったと、妙な縁起物にされて散々でした。白内障は将来、医療技術の進歩で治療が可能になるかもしれないとのことですが、右の聴力も少し落ちてしまった。顔を半分隠しておけば、自然と左側から話し掛けてくれるので、髪をおろしてる」  さすがに説明慣れして穏やかに笑っているが、大変だっただろう。 「なるほど。布袋充が執着するのも、縁起物にされるのも頷ける」 「身体の傷はほとんど消えましたが、ここだけは痕が消えなくて」  せっかくの美貌が損なわれたとか、痛々しくて不気味だと言う人もあるだろうが、傷によって神秘性が増し、蠱惑的にさえ思えた。 「どこに傷があろうと、白い肌に映えてむしろ綺麗だ。あなた自身が、画廊で一番綺麗な、生ける芸術みたいだな」 「――無流さん、だいぶ酔ってます?」  驚いた顔を見て、自分がとんでもないことを言ったと気付く。 「ああ……すいません。完全に失言だな。いい酒は飲みやすくて、どうしても深酔いする。もう酒は、やめておこう」 「失言というか……」 「容姿について言われるのは嫌ですよね。もう二度と言わない。申し訳ない」  生まれつき容姿のいい人間の、計り知れない苦労は知っている。人格を無視して軽率に容姿だけを褒めないよう努めていたが、つい本音が出てしまった。 「髭だって普通に生えますし、私だって、あなたと大して変わらないただの男ですよ」  怒ってはいないようだとわかり、安心する。 「髭も似合いそうだな。あんたは雅だが、男気があって凛々しいし、堂々としてるから」  北原は華はあるが、あくまでも美男だ。背は無流と比べれば低くても、平均的な日本人男性より体格はいい方だろう。細身だが華奢ではなく、志賀警部と近い均整のとれた体型で、女性と見間違えるような雰囲気ではない。 「あなたの方が、私よりよっぽど勘違いされやすいんじゃないですか?」 「勘違いって……俺があんたを綺麗だと思うのは――外見だけの客観的な評価の話じゃなくて、内面も含めた個人的な親近感と、好意だ」  これまで抑えていた率直な気持ちは、ひと度こぼれたら、止められない。北原は拗ねたような顔で、無流を憎らしそうに睨んだ。 「私の好意とはきっと、違う」 「勘違いじゃないと初めに言ったのは、あなただ」  誘われているのではと思っていたのに、北原の様子は不自然だ。  真っ直ぐ見つめ合っていた北原の目が、不意に何かに気付いた後、一瞬、絶望に似た色に曇り、視線はそらされた。 「私はただ――行かないでほしくて」  あのやり取りは、その気もないのに思わせぶりに褒めるようなことを言うなら、冗談にしないぞという切り返しだっただろう。  ただ、そう返された無流は、北原が思うより自分が本気だと気付かされた。  もし誘われたら、酒の勢いも手伝って流されてしまう。そう思ったのに帰らなかった。いつそうなってもおかしくないなら、早い方がいいと思ったからではないか。 「その、動機は?」  無意識に選んだ言葉と行動が積み重なって、問い、答えるごとに、自分の真意に気付かされる。  その容姿と性格で、これまで恋愛しなかったとは考えにくい。それでも今、北原は独り身だ。  愛子は北原の相手に無流を想定していたが、「美女でも美男でも」と言ったくだりには、訂正を加えなかった。女も男も恋愛対象になり得るとわかる。  北原の出自なら、ある程度裕福で教養と地位のある相手になるだろう。ただ、その立場の人間が政治的な婚姻から逃げ切るのは、難しい。家名を重んじれば、同性で添い遂げるのは無理だろう。  北原の潔い性格では、初めから愛人として望まれるのは耐え難いだろうし、偽装結婚を受け入れるとも思えない。女性と結婚したらしたで、度々、困った輩に執着されるのであれば、安全に暮らすのは人一倍難しい。  だから、無流を選んだのだろうと思った。恋愛にも結婚にも子どもにも執着はないが、情に厚く、北原の人格を尊重し、安全に暮らせる。もし恋愛関係が終わっても、助けを求めれば自分を見捨てないと思えたのだ。  愛子はそれを全部わかった上で、それぞれの日常に戻って、この関係が薄れていくことを惜しんだ。 「私の好意に応えられなくても、あなたならそのまま、甘えさせてくれると期待したんだ。身勝手な話ですよね」  自虐的にそう、傷付いたように気弱に笑った顔に、(たが)が外れたように感情が溢れ出す。  涼やかな声に幾度ときめかされ、自分の持ち物にまで染み込んだ香の余韻に、幾度、酔わされたか。  北原の上体を抱き寄せ、左の首元に軽く、口付ける。 「俺が応えたら困ると言われても、もう遅い」  そう低く囁き正面から見つめると、北原は観念したように身を任せ、どちらからともなく唇を合わせた。  ゆっくり溶け合うような口付けは次第に深くなり、酒臭い息は生々しく、二人を煽る。無流の首や肩に北原の腕が絡んだところで、ようやく離れた唇から、切なげにため息が漏れた。 「ずるい……こんな色気を隠して」 「お互い望んでいるとわかれば、我慢はしない」  薄く残った傷痕を撫で、伏せた右目の瞼を啄ばむように口付ける。 「私は、面倒な男ですよ」 「別れたくなくて始めるなら、きっと続けられる」  潤んだ目で強がって見せた北原に、無流はやっと、いつものように微笑んだ。
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