エピローグ

1/1
前へ
/6ページ
次へ

エピローグ

 世界からY染色体が取り除かれ、暴走機関車たる性淘汰も消え失せた世界は、超安定社会へと変貌を遂げた。  熾烈な資本主義的競争はなし、戦争もなし、暴力沙汰はごくまれ、国家という概念は消え失せ、明確な統治者のいない全世界的な共産主義社会が現出しさえした。  それはカール・マルクスが描いた本当の意味での共産主義であった。独裁者はおらず、誰も搾取されず、食料生産などの必要な仕事は自動化農場(オートメーション・ファーム)が受け持ち、仕事は各人が趣味でやるものという位置づけ。  競争がないので技術革新もイノベーションも生まれないのだが、幸か不幸かあくせく働かなくてもよい程度の科学技術は、男性がジェノサイドされるまでに確保されていた。  彼女らはこのまま永遠の平和と惰眠をむさぼり続けるだろう。  そのはずだった。      *     *     *  ある日、16歳になった彼女――アビゲイルの遠い子孫――は怒りを爆発させた。 「かったりい!」アビゲイルn世は野原で舟を漕いでいる友だちに食ってかかった。「なんつう退屈な世界だよ? てめえそう思わねえのか」 「なんなのいったい」友だちは目をこすりながらあくびをひとつ。「せっかくいい夢見てたのに」 「毎日バカみてえに寝腐ってよ、それで満足なのかよ?」 「みんなそうやって生きてきたじゃない。なにをそう怒ってるの」友人は再び嗜眠状態へ落ちていった。 「あたしはこんなやつらとはちがうぞ」アビゲイルn世は野原でだらしなく眠りこける肥満体の同性を侮蔑のまなざしで睨みつけた。「意味のある人生を生きてやる」  彼女には祖先から連綿と受け継いできた〈怒りの遺伝子〉があった。その正体はY染色体の本体ともいうべきSRY遺伝子の残骸である。  クリスパーによる遺伝子ドライヴはY染色体そのものを破壊した(そんなことはそもそも不可能である)。胎児を男性化するSRY遺伝子の機能をオフにしたにすぎない。それは偽遺伝子としてごく少数のX染色体内部に取り込まれていた。DNAリカーゼによる修復時の交叉によって、あるとき偶然にX染色体へ移植されたのである。  アビゲイルn世は怠惰なX染色体オンリー世界に対して猛烈に怒っていた。女性にはめったに見られない性向である。彼女の系譜は伝統的に、ジェンダーでいえば男性脳に近かったといってよい。  そしていま、過度なストレスによってアビゲイルn世の扁桃体からアドレナリンが分泌された。それはカスケード状に代謝されてアンドロゲンへと変化し、子宮へあるシグナルを伝えた。  そのシグナルとは、、である。  アンドロゲンはメチル基を駆動し、X染色体に隠されていた偽遺伝子を抑制しているプロモーター領域へ結合、その戒めを解いた。  SRY遺伝子は永い眠りからついに目覚めた。ほかでもない、X染色体保持者の卵母細胞のなかで。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加