序章

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「姉様、人間です!」  妹が馬から飛び降り、今にも息絶えそうな晴に駆け寄った。翌朝のことである。晴の息は浅く、今にも消えそうになっていた。 「捨て置け」  同じ顔を持つ姉が、馬上から吐き捨てる様に言う。  二人は白く美しい髪に長い耳を垂らし、赤く輝く瞳で見つめ合った。 「このままにしておけば、この方は死んでしまいます」  既に陽は高く昇り、青々と茂る羊歯と月桂樹の森には細い陽光の梯子が無数に差し込んでいる。若い姉妹は背中に弓矢を背負い、狩りの為に森を巡回していた所だった。 「その身なりは戦士のもの。愚かな戦を繰り返す人間共が野垂れ死ぬのは、当然の代償だ」 「……どんな命も、死んで当然の者など、おりません」  妹はそう言い晴の腹へ手をかざし、妖力を込めて一生懸命に晴を馬の背へ引っ張り上げ始めた。妹は優しい心の持ち主だが、決めたことは梃子でも曲げない強情な性格だ。 「そんなんだから、お前は変わり者と誹られるのだ」  暫く馬上から見守っていた姉は、やがて諦め、そう文句を言いながら手伝ってやった。    死にかけの戦士を馬の背に乗せ、姉妹は木漏れ日の差す森をゆっくりと歩いていく。暫くすると月桂樹の密生が開け、小さな集落に着いた。辺りは清らかな川に囲まれ、森の入り口からは想像もつかない程の陽光が降り注いでいる。  三十ほどの質素な家屋と耕されたささやかな畑が広がるこの場所が、迫害された彼女たち一族の住む隠れ里だった。  晴は里長の家に運び込まれ三日三晩寝込んでいたが、妹の献身的な看病により四日目にとうとう目覚めた。うつ伏せに寝かされた顔には茣蓙の痕が付き、涎が垂れていた。身動ぎすると背中の大きな傷から鋭い痛みが走る。 「戦士様、傷の手当ての最中ですから、どうかじっとなさっていて下さい」  横目で見上げると、顔のそっくりな若い女が二人と老婆が一人、晴に掌をかざしながら覗き込んできた。皆一様に白髪と長い耳を持ち、赤い瞳だ。 「……そなたたちは、一体」  晴が掠れた声を絞り出す。姉妹の姉の方がジロリと睨みを利かせて答える。 「お前たち人間に、土地と同胞を奪われた一族だ」 「……人の世ではウサギと呼ばれていたそうです」  隣で妹が寂しそうな笑顔を見せた。  ウサギ。晴の聞いたことの無い一族の名前だった。しかしその外見の特徴は成程、兎によく似ている。  妹の方の柔らかな態度から確信を得た晴は、里長である老婆が制止するのも聞かずに肘を付いてゆっくりと上体を起こす。 「俺を助けたのはそなたか」  彼女たちの妖術により、先ほどよりも背中の痛みは僅かに和らいでいる。死に場所を求めていた筈なのに、生きていることに安堵を感じている自分に呆れながら晴は胡坐を掻いて正面から妹に向き合う。 「どうか恩人の名を教えてくれ。そなたの名を」  木と藁で出来た小さな家の中はシンと静まり返って異様な空気に包まれた。暫くの沈黙の後、姉の方が口を開く。 「……我らは被虐殺の歴史を持つ一族。悲しみや怒りといった個の情を無くし、種の存続のみを考えられる様、もう長いこと赤ん坊に名前は付けられて居ない」  晴は小さく口を開けてその赤い瞳を見つめる。意味を上手く理解出来なかった。睨みつける姉の隣で妹が深々と頭を下げ、告げる。 「私たち姉妹は、双子と呼ばれております。この里に双子は私たちだけなので、それで事足りるのです。戦士様も私のことはどうぞ、双子の妹とお呼び下さい」  かつて、この世にも争いの無い時代はあった。    それは、この世にもう一種類の種族が存在していたからだ。    白い髪、長い耳、赤い瞳を持つ、彼女たちの一族だ。人間とは違い、傷を治癒したり物を自在に動かす力を持っている。その力を怖れた人間たちから迫害され、集落に火を放たれ、水に毒を流され、捕まえて奴隷にされた。    彼女らの外見を揶揄しウサギという蔑称で呼び、迫害することで、人間たちは束の間の団結を手にしていたのだ。それ故に争いは『無かった』。  生き延びた僅かな彼女らは、開墾されていない東の森の奥深くに逃げ込み、人間たちとの一切の交流を断ち切ることで密やかに生きる権利を得た。そして人間の世界からその存在を消された。    共通の敵を失った人間たちは、やがて小競り合いを始め、長い戦争の時代に突入したのだ。
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