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何日か治癒を受け、晴の背中の大きな傷は塞がった。傷跡は大きく残ったが痛みは無い。父から継いだ馬も薙刀も失い惨めに逃げた自分に帰る場所があるのか分からなかったが、それでも晴は帰還することしか考えられなかった。
「行かれるのですか、戦士様」
「妹君……」
里長の家で身支度をする晴の元へ妹が尋ねてきた。他の者は人間を怖れて寄り付かないが、滞在中この妹だけはずっと晴に寄り添って離れなかった。初めは奇妙に思えたその外見も、慣れてくると美しく思える。晴は、出立を少し遅らせ、妹と連れ立って川辺へ出た。
晴の俯いた首筋に並ぶ硬質化した鱗状の皮膚に手を伸ばし、妹は背伸びしてそっと触れた。そして驚いて振り向いた晴に微笑み、
「なんて綺麗な項でしょう。まるで龍にも虹にも思えます」
と囁いた。
「私は……もっと戦士様と過ごしたいです。もっと人間のことを知りたいのです」
目を丸くして黙っている晴から寂しそうに手を離し、ため息を吐きながら透き通る川面を見つめる。一族の者は老いも若きも皆同じ特徴の者ばかりだ。
年頃になれば細胞分裂による受胎で赤ん坊を作り、誰とも交わらず、個を認識せず、一族の為だけに産まれ、そして死ぬ。
自分の人生を、ただ血を繋ぐ為だけの駒の一つだと感じる度、妹は苦しくて堪らなかった。何も感じない姉や集落の者たちが不思議で仕方がなかった。此処では自分だけが異端者だ。
「世界には、戦士様の様に、私たち一族とは違う外見の方々が大勢いるのですよね。会ってみたいです。森の外へも行ってみたいのです」
「……しかしそなたは、人間に迫害された過去を持つ一族と聞いた。恐ろしくはないのか」
晴は慎重に言葉を選びながら訊いた。少なくとも自分の小国にウサギの存在を知る者は居ない。だがこの森は不可侵とされ、誰も侵略しようとはしない。
日の当たらない荒地だからだと思い込んでいたが、妖術を使うウサギの生き残りを怖れて誰も立ち入らなかったのかもしれない。
「戦士様が私たちの存在すら知らなかった様に、私たちの世代もまた迫害されていた頃のことを良く知りません。語り継がれてきた記憶を聞いて育っただけです。本当のことが何かも、今の世の中がどうなっているのかも、知らないのです」
妹は晴の逞しい腕にスルリとすり寄った。晴はそれを一瞥し、拒まなかった。
「戦士様……国へ帰ってまた戦争をするのですか」
「……人間は今、世を統べる王を奪い合う戦を続けている。俺は、南の大国の王を一人仕留める所だった。もしあの時成功していれば、今頃は南の領土を小さな国の俺たちが占領し、飢えに苦しむ民の腹を満たせていたのかも知れぬ。……しかしそれは叶わなかった」
「あの背中の大きな傷」
そう呟かれ、晴は素直に頷いた。
「そもそも同盟を組んだところで。数も武器も足りなかった。我々小国の人間は圧倒的に力が無いのだ」
晴は川面の穏やかな流れに似つかわしくない重く暗い表情で正面を見つめていた。拳を震えるほど強く握りしめ、裏切られた悔しさと怒り、そして諦めに打ち震えている。
「俺はそれでも、この世界と決着をつけなくてはならぬ。民を苦しみから救うのは王族の務めだ」
空色の短髪が風を受けて靡く。同じく空色の瞳が森の木々の遥か向こうを睨みつける。尖った耳先、首の鱗、大きな逞しい身体、晴のその全てが妹にまだ見ぬ人間の世の美しさを教えた。
妹はうっとりと晴の横顔を見つめ、その存在に自分たちの一族がこの狭い集落と陰鬱な森を捨て広大な大地に大勢の多種多様な人間たちと共に暮らす未来を重ねた。
「私なら、人間とは違う力を使えます」
風の合間に妹の唇が晴の耳孔へ寄る。
「どうか私にお手伝いさせて下さいませんか」
晴は我に返った様に妹を見た。妹は挑む様な強張った笑みを浮かべている。
「きっと貴方をこの世の王にして差し上げます」
「……俺を、王に」
妹は小さく頷き、晴の逞しい胸にそっと頭を預けた。美しい白銀の髪が陽の光を受け虹の様に輝く。妹がこの集落を出たがってその言葉を口にしていることくらい、晴にも解った。
同時にこの不思議な力を持つ女を、外へ連れ出してみたいと思う自分も居る。何よりも、仲間に背中傷を作られ手土産も無しに国へ帰ることは避けたいという打算もあった。
「俺を王にして、そなたは何を得る」
晴がそう訊くと、それを快い返事と捉えた妹は嬉し涙の浮かぶ歪んだ笑顔で食い入る様に見つめ返した。
「統一された世に、私たち一族にもどうか居場所を下さい。この貧しい森の狭い一角で種の存続の為だけに生きて死ぬ生活から、どうか御救い下さい」
少しの逡巡の後、晴は妹の震える手を取り、自らの大きな両手で包み込んだ。
「約束しよう。俺もそなたと共に生きられる世が待ち遠しい」
その後、姉は頑なに反対したが、最後は里長の老婆が妹が里を出ていくことを了承した。
この集落の場所についての他言無用と二度とこの集落へ妹が帰らないことが条件だった。晴に飛びついて喜ぶ妹を尻目に、姉は産まれて初めて里長に反論した。
「人間の世へ行けば辛い目に遭うことは分かり切っているではありませんか! 迫害され、奴隷にされ切り刻まれて殺されるかもしれません。何故このようなことを許すのです!」
里長は声を落とし、姉にだけ
「元より双子は忌み子。成人する際にお前たちのどちらか一方を無に帰すことは決まっておったのだ。妹は上手くいけば人間の世で生き永らえる。しかしこの里で生きるのならば来年死ぬのはお前だぞ」
と囁いた。妹は姉よりも妖力が強い為、間引かれるのが自分であることは容易に想像できる。姉は青い顔をして言葉を失い、それ以上もう何も反駁しなかった。
翌日、何も知らずに妹は美しい笑顔で手を振り、晴と共に集落を去った。夢の様に輝く未来に胸を期待で膨らませ、希望で満たされている。
餞別に受け取った妹の愛馬と共に、二人は銘々の思惑と僅かな恋情を携え、戦乱の人間の世へと向かった。
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