6人が本棚に入れています
本棚に追加
にごり酒
「枝豆、冷奴、おにぎりとお味噌汁のセット、あと……にごり酒を少しだけ、ください」
「はいよ、みなみちゃん。いつもの、だね」
店長の息子さんの辰君がメモを取ろうとして、その手を止めた。もうすっかり覚えているから、書く必要がないのだろう。
カウンターの中で焼き鳥を焼いている店長がチラッと私を見て、目が合うと微かに笑って、お互いに会釈した。
この場所があるから、私は生きていられる。
チェーン店ではない、個人経営の居酒屋の暖簾を、女性が一人でくぐるのは、最初は少し勇気が要る。
私の場合は特に、一人で外食をすること自体、初めてだったのだから、心臓の鼓動はかなり大きかった。
会社の帰り。その日は残業が長引いて、すでに十時近く。体はかなり疲れていた。もう足がちゃんと上がっていないらしく、普通に歩いているはずなのに、何度も転びそうになった。
一人暮らしのワンルームのアパートに帰っても、電気もついていなければ、お湯も沸いていない。冷たくなった洗濯物を取り込む体力もすでにない。疲れた体を引きずって、気力だけで最低限の家事をこなす。
そんなふうに仕事に追われるだけの生活で、心がささくれ立っていた頃だった。
最寄りの駅と住まいのちょうど中間くらいにある『居酒屋たつきち』が、入口に出している『本日のおすすめ』と書かれたホワイトボードに何気なく目をやって、私の足は止まった。
何品か書かれたメニューの一番下に、小さく書かれた一文。
『今年のにごり酒、入りました』
にごり酒……。
アルコールは体が受け付けないくらい弱い私だけれど、学生時代に飲んだことがあった。
懐かしい。あの味をもう一度味わいたい。
私は暖簾をくぐり、引き戸をガラガラと開けた。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれた若い男性の声が元気ハツラツだったら、疲弊していた私には刺激が強すぎて、耐えられなかったかもしれない。しかしその声は低く、温かく、柔らかな「いらっしゃいませ」だった。おつかれさん、がんばったね、と言ってほしくなるような、甘えて、寄りかかりたくなるような、包容力のある声だった。だから初めてで緊張しつつも、私はなんとか店員さんに声をかけることができた。
「あの……一人なんですが」
「お一人様、大歓迎ですよ。カウンターか、あちらの二人席でも……」
私がこういう場に慣れていないとすぐに察してくれたらしい。
「か、カウンターで」
「はい。それではこちらにどうぞ」
店員さんはカウンターの端から二番目の椅子を引いてくれた。
カウンターデビュー。中で働いている人と会話をするのがマナーなのだろうか。焼き鳥を焼いている六十代くらいの男性をそっと観察した。気難しいおじさんだったらどうしよう。
「なんにします?」
先ほどの店員さんが傍らに立ち、メモを取ろうとしていた。
「あ、あの、外に『にごり酒』って……」
「はい、ありますよ。にごり酒ですね」
「あ、いえ、あの……」
困った。実はほとんど飲めないなんて言えない。じゃあ何しに来た、と言われるのだろうか。個人経営の居酒屋はお酒が飲めない人厳禁なのだろうか。
店員さんはかがんで、私の顔の近くに耳を寄せた。小声で何でも言っていいよ、という意味だ。
「あの、私、アルコール弱くて、全然飲めないんですけど、ずっと前ににごり酒を飲んだことがあって、おいしかったことを思い出して、また飲みたいなって……でもふた口くらいしか飲めないので、どう注文したらいいかわからなくて。それに私、チェーン店じゃない居酒屋さんも、カウンターも初めてで、マナーがわからないんです」
店員さんはうんうんと頷きながら聞いてくれた。
「すべてかしこまりました」
ほっこり、温かい笑顔で店員さんはそう言った。私はその笑顔に救われたような気がした。疲労に押し潰されそうな私に、この人は手を差しのべてくれた。
「なにか柔らかいものを胃に入れながら飲むといいですよ」
「じゃあ、え、枝豆と……冷奴と……あ、おなかがすいているので、ごはん食べたいんですけど、ごはんてあとから注文しないといけないんですか?締め?ですか?」
「いいえ、おにぎりとお味噌汁のセットがありますよ。糠漬けが付いてます」
「それでお願いします」
「にごり酒はふた口くらいでしたね?ではぐい呑みに少なめにお入れしてお持ちしますね」
「ぐ、ぐい呑みってなんですか?」
「……お待ちください」
店員さんはカウンターの中に入ると棚から深い小鉢のようなものを取り出した。
「これに半分くらいでふた口になると思いますよ」
「はい、お願いします」
若い店員さんは焼き鳥を焼いている男性に
「店長」
と呼びかけ、メモを見せてなにか耳打ちした。すると店長は
「これを機に、お見知り置き下さい」
と私に笑顔を向けてくれた。
あるひと言が誰かの心を支えたり、力になったりすることはあると思う。私にとってはこの「お見知り置きを」がそれだった。私を受け入れてくれて、癒されたい欲求をいつでも叶えてくれる。私はこの瞬間を、いつか死ぬ最期のときに思い出したい、と強く願った。
にごり酒は口の中でまろやかにとろける。甘酒に似た口あたり。その呑みやすさとは裏腹に度数は高めで、飲み込んだ瞬間、カーッと喉が熱くなる。しかしそのまろやかさと一瞬ほのかに甘い味を求めて、また飲んでしまう。そして、カーッ。そのループ。
私はふた口分のにごり酒をちびちびと四回に分けて呑んだ。
おいしい。とろん、だ。
枝豆や冷奴と合っているのかどうか、正直なところわからない。ただ幸せなことだけははっきりわかる。にごり酒がおいしいこと、ありったけの包容力で迎えてくれる『たつきち』の店長と店員さん。(何回か通ううち、二人が父子だと知り、なぜか感動した。)
居心地の良い、カウンターの端から二番目の席。私の特等席。
私が「お一人様」から「みなみちゃん」に変わる頃には、『たつきち』が、店長が、そして息子の辰君が、私にとって大切な存在になっていた。
それは「失いたくない」という恐怖の気持ちをはらんでいた。言葉にしたら現実になりそうな儚さを含んでいて、私は決して口に出すまい、と唇を噛んだ。
「お座敷席に運ぶか」
ぼんやり店長の声が聞こえる気がする。それとも夢?
ひと月前、社内で数名の人事異動があった。私は総務から広報に異動になった。広報は営業と関わることが多い。その営業部の男性達がくせ者揃いだった。広報では新人でなにもわからないから、と私が上げた案はスルーすることに決めているらしい。広報の上司に企画をあげろと言われ、必死で勉強し、企画案を作っても
「みなみちゃんさあ、これじゃ、高校の文化祭以下だよ」
と会議の場でわざと私を笑い者にする。上司から合格をいただいた上で会議に出しているとは言えない。上司も営業のくせ者達の機嫌を損ねたくないから、下を向いたままだ。上司を盾にして私を正当化するわけにはいかない。
くせ者はしまいには
「どうせなら『浅倉南』がいいよな」
と国民的人気漫画のヒロインの名前まであげる。今年入社の新人が
「誰ですか?それ」
と真顔で訊いて、営業のベテランが顔をひきつらせ、会議室にくだらなくも嫌な空気が流れたりする。下を向いたままの上司が必死に笑いをこらえているのがバレバレだ。
営業の人達が私を「みなみちゃん」と呼ぶのは、親近感でもなんでもない。半分ばかにして、見下しているからなのだ。
辰君の呼ぶ「みなみちゃん」とは全然違う。あの包むような人柄と声に癒されたい。辰君に会いたい。
私は昼間の会議を思い出していたのだろうか。浅い夢だったのだろうか。
目が覚めると、見慣れない天井が視界に入った。敷布団が薄いような、狭いような、分割されているような……。
私は慌てて体を起こした。
私の部屋じゃない。でもよく知っている場所……。
「おはよう、みなみちゃん」
カウンターの中のガス台の前に立っている辰君が、クスクス笑いながら私を見ていた。
「おはようございます……って、朝?え?」
窓や玄関から明るい陽射しが入り、店内はいつもと違う表情を見せている。酔っ払ったサラリーマンが大声を出したり、生ビール対日本酒でプレゼンが始まったりする、あの解放された夜の活気も、今はどこかに潜んでいるかのように、しんとしている。
「畳とはいえ、店に寝かせてごめん。でも二階の住居に連れ込むわけにはいかなくて。親父と俺、男二人だからさ」
以前、店長と奥様は、辰君が小学生の頃、離婚したと聞いている。
「いえ、泊めていただいただけでも……私、よく覚えていないんですが、これは酔って記憶を失くす、というものですか?ドラマで観たことがある……」
辰君はガスの火を止め
「雑炊作ったけど、食べる?」
と鍋を指さして言った。
「……いただきます」
誰かを好きだと思う瞬間と、なんとなく好きだと以前から自覚していたが、確実!と心に判子を押してしまった瞬間は、似ているようで全く違う。これは後者だ。「食べる?」と鍋を指さす辰君のしぐさと顔と声。切ない気持ちはこんな些細なことから始まるのだ。
辰君は小丼に雑炊をよそい、木のスプーンをつけて、カウンターに置いた。私はお座敷席を降り、靴を履いてカウンター前の椅子に座った。
鮭と卵の雑炊がかわいいピンクと黄色を彩っている。アクセントの小ネギが鮮やかな緑だ。鰹のお出汁が湯気に乗っていい香りを私に届ける。
ひと口すすると、優しい味がゆっくり胃に落ちていく。
「すごい……おいしい。染み入る……」
「あはは、ありがとう。みなみちゃん、酒で記憶を失ったんじゃないよ。たぶん寝不足と過労だよ。何日か続けて寝てないんじゃない?」
「異動があって、新しい仕事に慣れるために勉強してたんで……」
「そっか。昨日十一時頃来店してくれたんだけど、顔色悪いし、やつれてるし、目の下のクマもくっきりしてて、親父が『酒は出すな』って。でも注文されたら出さないわけにいかないしどうしようかと迷っていたら、みなみちゃん、いつもの席に座った途端、眠っちゃったんだ」
全く覚えていない。
「で、閉店過ぎても起きないし、悪いけど座布団並べて、その上に寝かせて、あ、ヘンなとこ触ったりしてないから!毛布かけたけど、寒くなかった?」
「ありがとうございました。寒くなかったです。ずいぶんご迷惑かけて……疑ったりしませんよ。『たつきち』に通って半年ですよ?ヘンなとこ触ったりしない人達だってことくらい、わかります。それにそんな色気もないので」
私は恥ずかしくなって、雑炊をバクバク口に入れた。
「あっ、はふ、はふひ」
さっきまで鍋でコトコトしていた雑炊は熱かった。
辰君が慌てて冷水を入れたコップを出してくれた。
「あの、今度改めてお礼をさせてください」
帰る間際、私はそう申し出たが、辰君は笑って首を横に振った。
「そんなのはいいから。あのさ、みなみちゃんて……つきあってる人とか、いる?……なんて、聞いたりして、キモいか、俺」
辰君は今まで聞いたことがない、神妙な口調で尋ねた。玄関近くで並んで立つと、辰君はとても背が高かった。
「……つきあってる人はいないけど、好きな人は……」
「あ……そうなんだ。ごめん、変なこと訊いて」
辰君が一歩下がって、私と距離を取った。
ダメだ、簡単に諦められてしまう。
「ここに!」
私は辰君の胸の辺りを指さして、俯いた。たぶん私は真っ赤だ。顔が熱い。変な汗がぶわっと出てくる。
「へ?」
「だから……私の片想いの相手、ここに!」
私は指している人差し指に力を込めた。心臓の鼓動に合わせて、指先が震える。
ゆっくり顔をあげると、辰君は呆然としていた。
最低だ、この展開。
私は勢いよく引き戸を開けて、お店を飛び出し、走って逃げた。
思い出すたび後悔していた。が、日が経つにつれて、怒りがこみあげてきた。
辰君は少なからず私に好意は持ってくれていたのだろう。でなければ「つきあってる人がいるか」とは訊かないはずだ。なのに!私に告白させて!私が勝手に先に告白したとも言えるが……。いや、すぐに諦めようとして引いた辰君が悪い。その程度の気持ちなら、正直、要らないし!
私は怒りが収まらなかった。収まらないままひと月はあっという間だった。
結局、「ごめん」とすぐ謝って、後ずさりした辰君の、あの行動にずっと怒っているのだ。
人を好きになることはとても貴重で、とても素敵で、とてもめんどくさい。そして小さなことに傷ついてばかりいる。
些細なしぐさが眩しくて、こんなに好きなのか、と実感した十五分後に、一歩距離を置かれただけで傷つき、怒りが収まらなくなる。初めて聞いた声には包まれるような温かさを感じたのに、ごめんと謝られた声は私を拒否したように悲しく響く。
人を好きになると、一瞬が飛び上がるほど幸せで、一瞬がナイフで切り裂かれるみたいに痛い。
更に半月が経った。会社を出ると寒くて、もうすぐ冬用のコートに替えねばならないと思った。私は秋用のネイビーのコートをとても気に入っているので、少し寂しくなった。ちょっとかっこよく見える気がするところが好きなのだ。
私はふと、このネイビーのコートを着ている姿を辰君に見せたいと思った。
見せたらなにか変わるわけでもないのに。
自嘲しながらも、私は最寄りの駅から、つい早足になってしまい、だんだん小走りになり、最後はダッシュして、『たつきち』の引き戸を開けた。
「いらっしゃ……どうした?」
激しく肩で息をし、髪を振り乱した私を見て、辰君は動揺して近づくべきか迷ってオロオロした。
私は勝手にカウンターの端から二番目の椅子に座った。コートは着たままだ。かっこよく決めてやる。
「み、みなみちゃん……いつもの?」
私は深く息を吸い、覚悟を決め、冷静を装った。
「先日の告白はなかったことにしてください。申し訳ありませんでした。すぐ引くような男には興味ありません」
冷たい言い方をするほうが、かえって怒りが伝わるものだ。
決まった。かっこいい私。
私が自己陶酔して数秒。
「俺が片想いしてる人はここにいるけど。勝手に『引いた』とか言うなよ。ご注文は?にごり酒でいい?」
辰君は明らかにムッとしている。怒りながら告白してきたことを理解するのに、少し時間がかかった。
辰君の顔を見つめると、辰君は真剣な表情で私を見つめていた。
好きすぎて、眩しい。
「見つめあってないで、オーダー取れ」
店長が呆れながら、焼き鳥にたれをつけた。
辰君の告白に気づいたお客さん達がざわざわしてきて、ちらほら拍手が始まった。
最初のコメントを投稿しよう!