531人が本棚に入れています
本棚に追加
スラリとした細身の身体に端正な顔立ち。
佇まいや雰囲気から、淑やかとか清純という言葉が似合っている。
その時、ふと思い出した。
過去に一度、見ず知らずのゆきずりの男に手を出してしまったことを。
あの頃の舛花は正に性欲の塊りで、美人で華奢で男の欲望をそそるような身体を前に我慢ができなかった。
結局紅鳶に見つかり、叩きのめされたあげく牽制されたのだが。
彼はあの時舛花が襲った男だ。
しずい邸の元男娼であり今は紅鳶の伴侶…アオキ。
アオキは静々と歩み寄ると、忘れ物ですと言って微笑み紅鳶の胸ポケットにハンカチを差し込んだ。
その一連の所作はまるで水流に乗る花弁のように美しく、思わず目を奪われてしまう。
「俺が頼みました。この前顔に痣をつけて帰ってきてから紅鳶様の事が凄く心配で」
アオキはそう言うと、舛花の方へ視線を流してきた。
紅鳶にしたように微笑んでくれるかと思いきや、それは全く逆だった。
向けられたその眼差しには舛花への憎しみがはっきりと表れている。
恐らく舛花が紅鳶の顔を殴った事を知っているのだろう。
もしくは舛花が襲った事を未だに根に持っているか。
『こんな状況でなければお前を殴っている』という感情が瞳の奥からひしひしと伝わってくる。
楼主にバレるかもしれないという危惧にアオキからの威圧も重なって、舛花の背中はますます冷や汗で湿っていく。
するとアオキは今度は楼主の方へ視線を向けた。
「紅鳶様には何度も断られたんです。煩わしいから一人で行くと…。でも俺はどうしても心配だったから無理矢理承諾していただきました。連れて行かないと離縁すると言って…」
「りえん?」
「はい、離縁です」
アオキはそう言うとにこりと微笑んで見せた。
恐らくアオキは辻褄合わせに嘘をついてくれているのだ。
紅鳶の身が心配だから男衆を連れて行くよう頼んだのだとアオキが言えば楼主も疑いようがない。
だが一筋縄ではいかないのがこの楼主だ。
気を抜けば瞬く間に穴を見つけられてしまう。
なんともいえない緊張感が辺りを支配する。
暫くして、楼主が口を開いた。
「てめぇの女房はいつからおっかなくなったんだ?まぁ、離縁とまで言われちゃあ仕方ねぇか」
紅鳶に向かって皮肉を飛ばす楼主。
それに僅かに眉を上げて紅鳶が返事をする。
楼主はため息を吐くと、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「ああ、もういい。俺ぁそういうのに巻き込まれるのはごめんだ」
そう言うとヒラヒラと手を振って去って行った。
アオキの妙技により楼主の疑いも回避できて、紅鳶と舛花は無事に淫花廓の外へ出る事ができた。
二人を乗せた専用車は山を下り、高速道路を通ると人々で賑わう中心街へと入っていく。
スマートフォンを片手に歩道を行き交う人、人、人。
車の走行音、大型ビジョンに映し出される立体的で個性的な広告の数々。
箱庭から外に出ると、自分が如何に非現実的な世界の中で生きているかがよくわかる。
だが、これが升麻の住む世界だ。
この喧騒の中のどこかに升麻がいる。
そう思うだけで居ても立っても居られない気持ちになってくる。
今すぐ車を降りて、走って探しに行きたいくらいだ。
升麻….
もうすぐだ、もうすぐ会える…
車窓から見える景色を見つめながら、舛花は心の中で愛しい人の名前を何度も呼んでいた。
最初のコメントを投稿しよう!