第25章 わたしたちが結ばれない理由

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特別な話を打ち明けてるとも思われない、通常運転そのものの平静な彼の独白をひと言も聞き逃すまいと真剣に意識を耳に集中した。 「最初から君は、僕にとって他の人たちと何かが違っていました。どこがどう、というのは正直自分でもしばらくの間よくはわからなくて…。僕自身が君を屋敷に引き入れた成り行きだったから。責任感のせいで普段の様子が特別に気になるんだ、と解釈していました」 うん。まあ、そういうことなんじゃないかな。柘彦さんはわたしの知ってる限りでは特に無責任な人じゃないし。 「だけど、それだけじゃない。君と過ごす時間が次第に増えていくうちそのことを思い知らされました。僕と周囲の世界との間を薄いガラスのようなものが隔てている感覚があってそのせいで常に現実感がなくどこか遠く感じる。という話は以前にしましたっけ、あなたに」 「あ。…はい」 わたしはやや居住まいを正して彼を見やった。 もちろん覚えてる。その隔壁のせいで誰にも親しみや愛着を感じられない。って話の前振りだったから。 その告白にどんなに打ちのめされたか、と思い出すと。そう簡単に忘れられるはずもない。 彼は感情のない凪いだような目で淡々と先を続けた。 「だけど、あのときにあえて君に伝えなかったことが一つあります。僕が一緒にいるとき非現実感を覚えることがなかった相手が一人だけいて、それが眞珂さんでした。君がその場にいるときだけ。周囲の空気が全て直に自分に触れているのを感じることができた。…湿度や温度、風の匂い。そして色彩も。世界ってそういえばこんなに活き活きしていたんだな。と久しぶりに目を開かれたような、新鮮な驚きがありました」 「…はあ」 突然打ち明けられた話の重さが今ひとつわからず、わたしは曖昧に間抜けな声を漏らした。いや、えーと。…そんな風には。全然、見えてなかった気がするんだけど。…当時、外から見えてた彼の印象は。 わたしといるときも離れて遠巻きに見てたときも。変わらずべた凪のクールな無表情そのものだったよ?とは思うものの。 真面目に思い返せばそれは本当の最初の頃だけ。確かに彼は、二年余りの間に接してる感触が少しずつ変わっていった気がする。結婚する直前の頃には、少なくともわたしには何を考えてるか全く読めないということはなくなってた。 今、何だか楽しそうな顔したなとか。どこがどうってわけじゃないけど少し寂しそうに見えるなとか。傍から見たら多分それほど変化が表れてはいなかったんだろうけど、わたしには彼の気持ちの波が見えてた。いつの間にか当たり前に受け止めてたけど。 そう言われてみれば改めて。一体どのくらいの時点でわたしたちの間に変化のターニングポイントがあったんだろう? こっちが忙しく頭を巡らせてる間も彼の訥々とした告白は続いてる。 「初めて出会ったときから微細な違和感は既に感じていたのですが。はっきりと自覚したのは一緒に年越しをした大晦日です。君と二人で向かい合って食事をしたときにわかりました。食べ物の味を感じたのはあの日が久しぶりです。おそらくはだいぶ子どもの頃以来…。あまりに昔のことすぎて、自分が長いこと味覚をほぼ失っていたことにも気がついていませんでした」 「…ああ」 そうだった。 言われてその年の年末の風景が脳裏に鮮やかに甦る。わたしの方から言い出して、サンルームのキッチンで一緒にパンケーキを焼いてローストビーフのサンドイッチを作ったっけ。それからフレッシュローズティー。 薔薇の花びらをふんだんに使った香り高いあの飲み物。ずいぶん長いこと、わたし自身も口にしていない気がする。 「食べ物や飲み物の味や香りがこんなに強いとは、ずっと忘れていた感覚でした。その日は何がきっかけで急に味覚や嗅覚が戻ったのかすぐには理解できなくて…。あとで自分の部屋に戻り、一人でコーヒーを淹れたときにはまた味がしなくなっていた。君を部屋に招んで、一緒にコーヒーを飲もうという時になってやっと自覚しました。僕は、君といるときだけ。失ってた五感を子どもの頃のように取り戻せるんだってことを」 …そういえば。 あのとき、彼の部屋で自分が淹れるコーヒーは味がほとんどしない、だけどわたしとサンルームで一緒に飲んだのは味が濃くて香りも強いって言ってたな。豆が違うんじゃないか?とか、マシンが調子悪いのかなとかってあれこれ思いあぐねて二人で首を捻った記憶がある。 彼の部屋を訪ねたときに再びそんな話になって、一緒にマシンの調子を確かめたら豆のグレードに関係なくやっぱりちゃんと味が濃くなってた。彼はそれを確認したあと何かを察したみたいに納得してる様子だったから、何か原因が思い当たったのかな?と考えてわたしもそれ以上追及しなかったんだ。 今やっと知ったけど。あれは、実はそういう意味があったやり取りだったのか…。 「君といればコーヒーや薔薇のいい香りがして、食べ物は食べ物の味がちゃんとする。緑や空の色は目に沁みるくらいくっきりと鮮やかで、いつも雨や土の匂いがしました」
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