第25章 わたしたちが結ばれない理由

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「あなたのせいで、この人が信用を失って社会的地位の全てを手放して世間に居場所がなくなってもおかしくなかった。生まれ育った大切な場所に二度と戻れなくなってたかもしれなかったのよ。…あなたは彼を孤立させて自分以外頼れるものがない状況に追い込んで、強制的に自分だけの方を見るように仕向けた。それがあなたのやったことよ。彼を社会的に廃人にして、囲い込んで逃げ出せないようにして。帰るところをなくして独占して、自分だけのものにしようとしてた…」 …そんなことない。でも、そうなのかもしれない。 自分の頭が内側からがんがん殴られてるような音がする。彼女の冷たい平坦な声がまるで催眠術をかけようとしてるかのように、遠くで波のない音楽みたいにずっと聴こえてる。 …彼のため、って思い込んでた。だけど、本当は。確かに自分のためだったのかも。 何年、何十年先の遠い未来のことまで考えてる余裕がなかった。取り急ぎこの人を追い詰めてる環境から連れ出さなきゃ、って思って行動したけど。 そのせいで彼が館にもバラ園にも。住み慣れた心地いい場所、生まれた家へ二度と戻れなくなるかもしれないって可能性まで真剣に考慮までしてる余裕がなかった。 …そう。わざとじゃない。単純に、切羽詰まってたんだ。彼が唯一落ち着ける場所、広々とした自然に囲まれた恵まれた環境から引き離して。あえて孤立させて狭い部屋に閉じ込めようとしたわけじゃ。 そもそもそれが目的で、この人をわたしだけのために囲い込もうなんて。結果的にそういう状況に近くなってたとしても、少なくとも最初から意図して彼にとって頼れる存在がわたしだけになるように。強制的に追い込んでたわけじゃない、のに。 自分を疑い始めて自信をなくすと、さっきまで彼女に対して抱いてた反骨心がぐらぐらと崩れて自分を支えられなくなってくる。戦う姿勢が保てなくて呆気なく膝をついてしまった。 だって。彼女が突いてきた点はまるっきり濡れ衣、わたしの心のどこを探っても絶対に当たってないって胸張って証明できるってほど曇りない部分じゃなかったから。 呉羽さんが言ったことは百パーセント、下衆の勘繰りってわけじゃない。…のか、な。 わたしはただ単に。柘彦さんを連れ去って、二人きりになりたかっただけなのか。そういう自己中心的な動機が行動の本当の隠された理由だったのか…、そうじゃないとは。絶対の自信を持って断言はできない、かも…。 わたしのぐらつく姿を見下ろしてる呉羽さんの勝ち誇った声が頭の上でがんがんと響いて、弱った脳を容赦なく直撃してくる。 「…やっぱり、自分でも否定できないのね。そうじゃないかと思ったわ。何の見返りもなく全てを投げ打つ、なんて簡単にはできないものね」 口調がねっとりとしてきて覆い被さるようにわたしを責める。捉えた急所は放さない。この人、やっぱり。外から見た感じよりめちゃくちゃ怒ってる。腹に据えかねてるんだ。 「あなた、彼がわたしの夫になったのが耐えられなかったんでしょう。彼に相手にされなくて目の前で結婚されて、悶々としてたらそのうち慣れない社交生活に疲れてちょっと弱ってきたのがわかった。やった、これはチャンスだって沸き立ったんじゃない?ストレスたまって参ってるときなら。上手いこと言いくるめて自分の言うこと聞かせられるかもしれないものね」 「違う。…そうじゃない、です」 俯いて声を絞り出す。彼が衰弱してるのを見てラッキーだって喜んだ、なんてことは断じてない。本当に、見ていられないくらいつらかったんだ。それは今思い返しても間違いない。 …でも、ああ。自信を持って否定できるのはそこまでかも。彼の手を引いて二人きりで広い世界を目指したとき。 悲痛な気持ちではあったけど高揚感がなかったとは言いきれない。もうお互いしかいない、って思ったら。 切羽詰まってはいたけど不幸な気分ではなかった。この人を何とか安全な場所に落ち着かせてあげなきゃって使命感でいっぱいだっただけ。そして、それは。…意外に悪くない気分、だったのかも。 そしてこのバーの二階に住み着いて、新しい生活を始めてからは。彼をいつか元の家に戻してあげなきゃ、なんて考えもしなかった。二人と一匹でのこの暮らしがずっと、永遠に続けばいい。 彼の社会的立場、世間での地位のことなんて全然考慮していられない。いつか館に戻ったとき、奥さんを捨てて二十歳そこそこの娘と駆け落ちしたんだなんて噂が立って好奇の目で見られるなんて、そこまで気が回らなかった。彼が能條家の当主に戻る未来については。…想像するのも嫌だった、から。 わたしはこの人を捉えてバーの二階に猫と一緒に押し込めて。自分だけのものにして、独占し続けたかっただけだったのか。 彼のために何もかもを投げ打ったなんて大嘘。 彼の何もかもを取り上げた。わたしだけの柘彦さん、世間からもこれまでの人間関係からも切り離して。逃げ出せないように密かにここで、囲い込むため…。 勝利を確信して勝ち誇った声が上から容赦なく降ってくる。
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