第25章 わたしたちが結ばれない理由

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「…まあ。幸い世間に対してはこの人が逃げ出したってことはまだ隠せてるから。小娘に唆されて駆け落ちした、なんて見っともなくて言えないものね」 余裕をすっかり取り戻して、わたしの前に膝をついてやけにゆったりとした声で現実を眼前に突きつける。 「彼は体調を崩して都内の病院に入院してるってことになってる。表向きはね。…今なら何事もなかったように帰れるから。大人しくこの人から手を引いて、あなたはここででもどこかへ行ってでも好きなようにして勝手に一人で暮らしなさい。どうせお金もないだろうから慰謝料は勘弁してあげるわ。これが最低限のわたしからの情けよ。…まあ、こんなこと表沙汰にはできないものね。裁きの場に引きずり出すこともできないし、あなたを」 二十歳ともなってたら成人なんだから。本当は自分のしでかしたことにきちんと最後まで責任取らないといけないはずだけどね、と半分くらいはもう愉快そうな声でわたしに追い討ちをかける呉羽さんの台詞を、ふとはっきりした強い声がかき消すように遮った。 「…僕は屋敷には戻りません」 一瞬不意を突かれたようにその場がしん、となるのがわかった。まるで喋るはずのない生き物が突然口を利いた、みたいな反応。 彼は自分の存在を無視して目の前で散々やり取りされていた内容に一向に動揺した素振りもなく、凛とした声で誰にともなく言い渡した。 「僕があの家で暮らすことは金輪際、二度とないです。そのつもりで出てきましたし考えが変わることはありません。…彼女が僕をここまで連れてきてくれたことには感謝こそあれ。その行動に僕の意に反したところは全くないです。眞珂さんは僕の思いを理解してただ親身に手助けしてくれただけに過ぎません。…呉羽さん。どんなに謝っても償いきれないのはわかっています」 わたしを庇ってくれている。 すっかり打ち萎れてひと言も口にする気力もない、と見えてたのはこちらの早合点だった。烈しいやり取りが一段落して自分が口を挟めるタイミングを待ってただけなんだ。 わたしを軽蔑したり見放してはいなかった。 のろのろと顔を上げると、ぬるい水滴の名残りがつと頬を滑り落ちるのがわかった。…ああ。 わたし、泣いてたんだ。 無感動な認識が脳裏をよぎる。感情の動きが戻るより先に、唐突な柘彦さんの申し出がわたしの耳を撃った。 「僕と離婚してください」 それでいいのか。と動揺するわたしを別にすると、何故だか呉羽さんと茅乃さんは彼がそう言い出すのを予期してたようだった。ぴくり、とも反応を見せない。 柘彦さんはそんなことにお構いなく、淡々と自分の言い分を遠慮なく述べる。 「自分はあなたに相応しくない人間だと完全に確信しました。お互いの傷がこれ以上深くなる前に離れるのが最上の策だと思います。…あなたは若くて有能で、素晴らしい才能と力のある女性だし。僕なんかよりずっとあなたの伴侶として資格ある男性が、間違いなく今すぐにでも現れるでしょう」 「…それで自分は。離婚が成立するなりさっさとその子とめでたく結婚するってわけ?つまりは不貞行為を認める、ってわけね」 忌々しそうに胸の前で腕を組む呉羽さんが目の端に見える。わたしの視界の外から柘彦さんがすかさず彼女の皮肉をきっぱりと否定した。 「そんなことにはなりません。…僕と彼女は。全くそういう関係にはないですから。将来的にもそうなるつもりはありません」 「…そうなの?」 そこでようやく茅乃さんが口を開いた。 今さらながら彼の断言に衝撃を受けて、また涙目になりかけるわたしの思いを代弁するかのようにきつい口調で柘彦さんを問いただす。 「あなたね。ひと回りも歳下の女の子をいいように連れ回して、責任取る気もないとかそんなのある?だいいち、一緒に家出させて身の回りの世話をさせるだけさせといて放り出すとか。それがまともな大人のすること?この子の将来は台無しよ。まだほとんど子どもなのよ。それを騙して、都合よく利用して…。妊娠でもさせてたらどうする気なの。眞珂にだって。ちゃんと、約束された未来があったのに。この子と釣り合う同年代の男の子と結婚して、学校に行って資格取って。コンビニバイトなんかじゃないきちんとした仕事で身を立てるはずだったのよ。それを…」 「わかってます。…この人には。本当に、申し訳ないことをしたと思ってます」 腹に据えかねるとばかりに機関銃みたいに矢継ぎ早に言葉を投げつける茅乃さんを何とか遮る柘彦さん。彼女、一体何のために来たんだろ。 多分あの子にこってりお灸を据えてやる、と意気込んで来たらあっさりとわたしが用済みで捨てられるさまを目の当たりにしてぶち切れてしまったんだと思う。お説教をされる間もなく速攻で振られてしまった。がっくりと首を落として涙に暮れる。 彼はいつになく辛抱強く自分の意思を周囲にわかるようはっきりと説明するつもりなのか、怯まずに再び言葉を継いで先を続けた。
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