第25章 わたしたちが結ばれない理由

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「これまで心身が本調子でなかったので、彼女にすっかり頼って要らない負担をかけてしまいました。それについては心から申し訳なかったと思っています。…僕はこの部屋を出ます。バーでの仕事はやめませんよ。もちろん家にも帰りません」 彼がわたしから離れようとしてる。どこか遠くへ行っちゃうんだ、と動揺しかけるのを制するためかすかさずこちらに顔を向けて宥めるかのように付け加えた。 腕を組んだまま威圧の姿勢を崩さず、呉羽さんが皮肉たっぷりに彼に問いかけた。 「不倫関係にあるってばれたら離婚が不利になるから、慌ててその子を捨てるってわけ。それとももう飽きて使い捨て?」 「そもそも不倫関係にないので。彼女は僕に同情するあまりここまで同行して手助けをしてくれただけです。同居はしていますが後ろ暗い仲では誓って、全くありませんから」 誰の前でも恥じるところがない、とばかりに顔を上げて彼は冷静に断言した。事実だからそこを言明したくなる気持ちはわかる。だけど彼の奥さんが、実際にその説明で心の底から納得できるかどうかはまた別の話だと思うけど。 案の定彼女はやや切れかけた物言いでその点を突いてきた。 「あなたね。…それって、調停の場や家裁でそんな言い分が通るとでも思ってるの?言っておくけど。不義を証明するには具体的な肉体関係の有無の確認は必要ないのよ。密室で男女が二人きりで一定の時間を過ごした、って事実があれば室内で何をしていたかをこっちが証明しなくてもいい。行為があったと疑わしい状況にあったって証拠があれば不貞の事実は認められるんだから」 「それは知っています。ですから、離婚についての責任は当然僕の方にありますので。相応のものをあなたにお渡しする覚悟はあります」 彼は全く動じず平静な態度で彼女に応じて答えた。 「あの屋敷はあなたに差し上げます。改装して何かに運用するなり、必要なければお手数ですが売るなりしてお好きなように処分してください。あとは、会社の株ですとか。僕名義の預金もありますので、それも持っていって構いません。慰謝料がどの程度になるのか、そちらで算出して額を決めてください」 「…それじゃ。あなた、自分が生きていく分も残らないじゃない。その子にたかって余生を生きていく気?」 今自分が所有してるものは何も要らない。と淡々と申し出られて、さすがに呉羽さんはやや引いたようで微妙にトーンの落ちた声で毒気が抜かれたように呟いた。 「言っておくけど。その子だってわたしたちが離婚する原因になったら、当然法的に有責なのよ。彼女の方に慰謝料を請求することだってわたしはできるんだから。自分が持ってるものを全部投げ出せばその子は無傷で逃れられると思ってたら甘いわよ。あなただけじゃなく、しっかり奈月さんの方だって追及はするつもりだからね。世間から後ろ指さされるようなことしたんだし、自業自得よ」 ああ。それはまあ、そうか。 自分のことだけどどこか他人事みたいな感覚でぼんやりと考える。 わたしと彼が全く男女の仲じゃない、健全な関係なのは紛れもない事実だけど。それを証明する手段がないってことは薄々わかってたし、きっとそこを突かれて責められるんだなって覚悟はしてた。 形の上で見れば奥さんのいる相手と駆け落ちして、婚姻を破綻させた女でしかない。愛人関係にないんです、と本当のことを主張してもひとつの部屋で同居してる時点で同情を買うのは難しいだろうな。わたしと呉羽さんを見較べればうーん…、と納得してくれる人もまあちらほらいるかもだけど。 柘彦さんはしかし、微塵も動じなかった。曇りのない眼差しをまっすぐに彼女に向けて冷静に反論する。 「それは無理筋でしょう。僕に慰謝料を請求するなら並行して彼女にも同時に請求するのは不可能なはずです。有責配偶者か婚姻破綻させる原因を作った浮気相手か、どちらか一方にしか請求はできない規定では。しかも請求される側の負担能力も考慮はされますから。それほど法外な金額は算出されないでしょう。普通に僕を相手に慰謝料を支払わせる方が、あなたにとって有意義な決定が出ると思います。懲罰的な意味で彼女を訴えるとしても。結局はあまり意味のない結果になるのではないでしょうか」 「ふん。…その子に慰謝料請求が行けば結局あなたが裏から手を回して自分の資産の中から出して払わせるつもりだ、ってわけね。そんなことだろうと思った」 呉羽さんは実に忌々しそうな表情を浮かべて軽く舌打ちのような音を立てた。 それからいきなり乱暴に音を立てて座卓に手をついて立ち上がる。さも今思い出した、と言わんばかりに荒っぽく手持ちのバッグの中を探って取り出したものを放り投げるように座卓の上に落とす。 透明クリアファイルに収められた折り跡のついた書類。そこには既に署名と捺印が入ってる。流麗な筆跡で柘彦さんのフルネームが記入されてるのがわたしの目にもわかった。 初めて見る。…もしかして、これって。離婚届?
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