第25章 わたしたちが結ばれない理由

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呉羽さんの苦々しい声が頭の上から吐き捨てられたように降ってくる。 「いきなりこんなものを送りつけてきて申し訳ないけどどうか署名してくれ、なんて…。失礼にも程があるわ」 自分の署名済みの離婚届を送ってあったのか。いつの間に、と不思議だったけど思えば彼には昼間の時間がいくらでもある。よく見るとまだ配偶者、つまり呉羽さんの分の署名は入ってないけど。しっかり証人の名前は一人分記入されていて、柘彦さんのとは違う筆跡で牛島さんのフルネームがそこにあった。…ほんとに、いつの間に。 彼女はファイルを見下ろして、怒りでむしゃくしゃした顔つきを隠そうともせず苛々と呟いた。 「半年余りの間とはいえ仮にも妻であった相手にこんなやり口あり得ないでしょ。わたしのどこがどうして、そこまで悪かったのか。何が気に入らなかったのか、あなたの口からきちんとこっちにもわかるように説明してもらおうと思ってここまで来たけど…。もう、いいわ。何だかどうでもよくなった」 言うなりバッグに手を突っ込んでペンを取り出し、畳の上に膝をついて座卓の前に座り直して猛然と書類に記入し始めた。怒りに任せた殴り書きの書体。名前の隣に強めの圧でぎゅっと印鑑を押したと思うとはい、とその紙を茅乃さんに手渡した。 「あとで証人欄に署名しておいて。…今じゃなくていいわ。届を出すのは条件を詰めてからよ。勝ち逃げは許さないんだから。せいぜい搾り取らせてもらうわよ。…あなたも」 再び立ち上がりかけて、腰を浮かせたところで思い出したようにきっ、とわたしを睨めつける。 「もう二度と顔は拝みたくないから、今後は弁護士を介するけど。このまま彼を自分のものにできるなんて思い上がらないことね。あなたはこの人を騙して操って、わたしたちの結婚を破綻させて。彼を世間から断ち切って孤立無援にして、あわよくば自分だけのものにしようと目論んだんだから。そんな無害そうなあどけない顔して見せたって駄目よ。本性は知れてるんだから…。柘彦さん」 背中を向けて部屋から出ようとしかけて、ふと足を止めて振り向き彼の方を見やる。 「そんな子に簡単に騙されないでよ。今は否定してるのに、半年も経てばあっさりその子に思い通り攻略されて言いなりになってるとか、そういうみっともないところ見せないでね。ひと回りも歳下の女の子にでれて振り回されてると、若い女なら誰でもいいんだろうって笑いものになるだけよ。いい歳して」 彼女の目にはわたしが腹黒い性悪女みたいに見えてるんだろう。そんな大したもんじゃないけど。 実際に彼の心を捉えることも一度もできた試しがないし、と内心で恨めしく考えてるわたしの思いを裏書きするかのように柘彦さんはきっぱりと返してこちらのメンタルに容赦ないダメージを加えた。 「大丈夫です。僕とこの人はそういう関係には絶対になりませんから。…眞珂さんがきちんとした仕事を見つけて、相応しい男性と添い遂げるまで僕は手助けをして見届けるつもりです。無事に大人になって、安定した暮らしを送れるようになるまで責任持って守り通しますが。僕と彼女が男女の仲になることは今後ともありません」 …本人の口からまた、はっきりと将来の可能性はない、と。明言されてしまった…。 こんなに何度も念押しするように繰り返されるとさすがにきつい。でも、これがわたしに突きつけられた現実なんだろう。 すっかり闘う意思を失くしてがっくりと打ち萎れているわたしをよそに、むしろ思う存分やり合ってはっきり結果を出したことでさっぱりした。とでも言うようにさばさばした表情になった呉羽さんは急に関心を失った声で 「まあ、…もうどうでもいいわ。さっさと条件を詰めて手続きさえ終われば。…あとは。別に、好きにすれば」 と背中を向けたまま言い捨て、部屋を出て行く。肩をすくめて彼女に従い一緒にその後から立ち去ろうとする茅乃さんに、ふと思い当たって慌てて縋る勢いで話しかけた。 「あの。…茅乃さん、お手数ですが。あいつに…、哉多に。ほんとにごめんなさいって。いっぱい助けてもらったのに…」 他に何を言えばいいだろう。どんなに謝っても謝り足りない。わたしのことは既にけろっと忘れて楽しく暮らしててくれたら、と思うけど怖くて確かめる気にはなれない。やむを得ずとにかく最低限、伝えたいことだけを言い足した。 「幸せになって、わたしのことはもういいから。全部忘れてって…。それだけ。伝えておいてください」 彼女はちら、とわたしの方に振り向いてやや突き放した声で返してきた。 「やだ、そんなのわざわざわたしの口から伝えるの。…あんた、そういうことは自分できちんと相手と向き合って話すべきことでしょ。他人任せにしないで」 それから再びこちらに背中を向け、ほんの少しさっきよりは和らいだ声で付け加えた。 「…直に自分の言葉で説明してあげなよ。どんなに先になってもいいから…。いつか、そんな日も来るかもでしょ。普通にあの子と向き合える日が」 …そうかな。正直、そんな未来の可能性があるとは。わたしには全然、思えないんだけど…。 そこまでで二人は話は終わった、とばかりに早々に部屋を立ち去っていってしまった。そして、その場には。
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