第25章 わたしたちが結ばれない理由

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下を向いてただ涙を流し続けるわたしと。どこか吹っ切れたように落ち着き払った彼とが残された。 彼にわたしから何か言葉をかけなきゃいけないのかもしれない。結局離婚することになっちやって、すみませんでしたとか。本当にあれでよかったの?とか。 だけど、わけのわからない感情が一気にわっと込み上げてきて上手く喋れそうにない。これまで堰きとめてきたものがどうやらわたしの中にもいっぱい溜まってたみたい。変に思われる、と心配で止めなきゃいけないとわかってはいるのに。 わたしは俯いたままぽたぽたと止めどなく涙を流し続けていた。 みし、と古びた畳が軋む音がした。頭を下げてるわたしの視界に柘彦さんのデニムの膝頭が現れた。 最近の彼はだいぶカジュアルな服装をするようになった。もちろんどれもしっかり様になってるのがすごい。ユニクロのTシャツとデニムでこんなにすっきり素敵に見える三十半ばの男性って巷にそうそういるとは思えない。美形ってさすがだな。とまだ新しい生地の色を見つめながらどうでもいいことをぼんやり考えていた。 「…眞珂さん。泣かないで」 泣いてません。と反射的に言いかけて口を噤んだ。さすがにそこまで大嘘を真っ向から叩く気になれない。 彼がわたしの方に宥めるように手を伸べた気配がした。髪や頬に触れる前にそこでとどまったけど。 「悲しむ必要はありません。何もかも、これでよかったんですよ。…あなたのおかげです」 「よくは。…ないです」 ちゃんと回らない口を何とか開いて言葉を絞り出した。離婚そのものは。聞いた感じだと二人ともお互いまるっきり不本意、というわけでもなさそうだったけど。 さっき呉羽さんからぶちまけられた台詞がずっとちくちくとわたしの胸を内側から刺し続けていた。 「…柘彦さんが。あのお屋敷に住み続けられるやり方が他にいくらでもあったはずなのに、わたしのせいで全部駄目になった」 彼が何か言いかけたのを首を振って遮り、縺れる口で先を続ける。 「ほんとは根気強く呉羽さんと話し合って。他人と接するのが大変ならペースを落とすとか、人数を減らすとか。…あなたがゆっくりとでもこの先適応していける方法を、みんなに相談して模索してでも見つけなきゃいけなかった。それを、柘彦さんが弱ってて抵抗しないのをいいことに。あえてわざわざ館から連れ出したの。もう二度とあそこに戻れなくなるかもって、どこかでちゃんとわかってたのに」 「それは。…僕の方はもう、いいんですよ」 だから。よくはないって。 わたしはぶんと首を振って聞き分けのない子どもみたいにガキっぽい声で言い張った。 「動機が立派ならいい。あなたが考えてくれてるみたいに、わたしが持ってるものを柘彦さんのために何もかも投げ打った、なんて綺麗な話なら…。でも、実際はそうじゃなかった」 わたしは情けなさで顔を上げられないまま白状した。 「…ほんとは、あの人の言った通りだったんだと思う。わたしはあなたをあそこから連れ出して、二人きりになりたかった。あなたの人間関係や環境を自分のエゴのために取り上げたの。…自分はもともと大したものを持ってないんだから問題ない。あのお屋敷で得たものもそもそもあなたの力で与えてもらったもので、最初から自分のものじゃなかった。でも、あなたは違う」 一気に喋った反動で思わずしゃくり上げた。喉が変な風にひくひく痙攣する。 「住み慣れた生まれた家も、茅乃さんや澤野さんたち、柘彦さんが小さな頃からあなたをそっと見守ってくれてた人たちも。わたしの我儘で全部取り上げちゃった。…会社役員の仕事だって。わたしが邪魔しなければ新しい人脈が広がって、これまでより上手く行くようになったかもしれなかったのに。…奥さんのことも」 結婚してまだ半年。これからもっと時間をかけて歩み寄ったら意外に噛み合う可能性だってあったかもしれない。確かに性格や考え方は正反対な気がするけど。お互いに足りないところを補い合って悪くない組み合わせになってもおかしくなかった。 「この先粘り強く改善していけばまだ好転するかもしれなかったのに。わたしのせいで全部、ぶっちり切れて終わっちゃった。…わたしが悪いの。あなたをここに囲い込んで、誰にも触れさせないように隠して自分だけのものにしようとした。あなたの未来のことまで正直、考えようともしてなかった…」 わたしから離れていく彼のことを考えたくない。 だから、ほんの数年十数年先の将来の展望を考えることもしなかった。ずっとこの先もコンビニでバイト、彼の方はバーでバーテンダーの修行。それで長いことやっていけるはずはないけど、今はまあいいや。行き詰まったらまたそのとき改めて考えよう。 そうやって自分たちの未来に蓋をした。彼が戸籍をそのままに、婚姻関係を続けたままわたしと一緒に暮らしてたら。どんなことになるか、当然想定しておかなきゃいけないはずだったのに。 結局離婚届を用意して館に送付したのも、バーで修行をして前向きに手に職をつけることを考え始めたのも彼の方だった。
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