第25章 わたしたちが結ばれない理由

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わたしはと言えば、彼のそばにいられることですっかり満足して自分の将来のことまでろくに考えもしなかった。ただ日々の生活に追われて、毎日バイトに行くのが精一杯で。 そんなことを涙ながらにごもごも呟くと、彼が慰めの口調で応えてそっと頭に手を置いてくれた。 「君は生活のことで手一杯で余裕がなかっただけですよ。僕の方は毎日呑気にノマドと遊んで過ごしてて、気持ちにゆとりがあったから…。それに、離婚については自分自身のことですから。これについては僕が自分の考えで行動を起こすのが当然の話です。そもそもあなたが気に病むことではありませんよ」 大きな手のひらが優しくあやすようにわたしの頭の上を撫でた。 「本当は出だしから間違えていたのは僕なんです。深く考えずに結婚に踏み出すべきではなかった。彼女の方の目的はあの洋館と能條の家名だと推測して、だったら関係としてはお互いの要求を相互的に補完できるだろうと…。人間ってそう思い通りにはいかないものですね。感情もあるし、限界もある。僕は彼女の求めている水準には達していなかったようです」 「…柘彦さんは。彼女に何を求めて結婚を決めたの?」 わたし自身が彼の要求する水準にないことは既にわかった。だったら女性としては、呉羽さんみたいな大人の女性がやっぱり彼の好みだったのかな。と胸に尖った痛みを感じつつ思いきって尋ねると、微妙に苦笑を滲ませた彼の声が頭の上から降ってきた。 「前にもあなたには言ったかもしれませんが。彼女の経営手腕と政治力、それと人脈ですね。自分にはあの館を維持し続ける能力がないのはわかっていました。破綻したらそれはそれで仕方ない。生き残る力のない者は淘汰される、それだけのことです。…そう割り切って先のことは考えずに来ました。そこに、あなたが現れた」 「わたし?」 ぽかんとなって間抜けに訊き返す。よくわからないけど。柘彦さんが結婚した理由とわたしになんの関係があるの? 彼は頷いて生真面目な口調で先を続けた。 「深夜のあんな時間にひっそりと迷い込んできた君は、本当に寄る辺ない迷い猫のようでした。君を館に招き入れて、茅乃さんたちにお世話をお願いして…。みるみるうちに顔色がよくなって活き活きし始めて、笑顔も増えた。館のみんなに可愛がられて、初めの頃の衰弱してた様子が嘘みたいに幸せそうに見えて」 やっぱり野良猫に見えてたんだな。ノマドとそのきょうだいたちを保護したときの自分を思い出して微かに唸る。まあ、あんな気持ちだったんだろう。と考えたらわからなくもない。 「そんな君を見ているのは楽しかった。僕もほんの少しは君の役に立てたのかな、だったら存在している意義が僅かでもあったのかも。そんなことを考えて君を見ていた。自分の部屋や図書室の窓から。庭園で薔薇の世話をして、生真面目な顔つきでせっせと動き回ってる君の姿を」 何でかその台詞を耳にしたとき、庭での作業中にふと何かを感じて館の方を見上げると。揺れていた図書室の薄いレースのカーテンの印象が鮮やかに脳裏に浮かんだ。 風もないのに何でだろ、と首を傾げた覚えが何度かあった。…あれは、そういうことだったのかな。 そんな記憶を呆けっと脳内で転がしていると彼が話の先を継いだので、慌ててそちらに意識を追いつかせる。 「そのうち、君に頼れる身寄りがなくてあの家を出ても行く場所がないという事実を知りました。そう考えると屋敷をあともう少し、あのまま残す必要があります」 ふと彼の声に真剣味が増した。 「せめて君が決まった仕事に就いてもう心配が要らないくらい軌道に乗るか、信頼できる間違いのない相手と結婚するまでは…。その後もできたら不測の事態が起こって頼るものが必要になったとき、あの館がいつでも君の帰れる家でありたい。僕の力が足りなければ館が維持できなくても仕方ない、などと斜に構えて嘯いている場合ではありません」 彼の手がそっとわたしの頭から離れた。 「そんなタイミングでお見合いの話を頂きました。実際に会ってみて、この女性なら僕自身に関心を持たずに屋敷を自由に任せさえすれば満足してここの維持に心を尽くしてくれるだろうと…。ですから、まあ結局は全て僕のせいなんです。自分の力で何とかすべきことを他人の力を借りようとした結果がこれなんですから」 「いえ違うでしょ。大体はわたしのせいってことじゃないですか」 頭にも胸にもいっぺんに、いろんな感情が溢れてきてごちゃごちゃになる。 わたしだけが一方的に彼を見つめてたんじゃなかった。彼の方もわたしを気にかけて、いつも見守っていてくれた。 そのことを知った嬉しさと、結局じゃあ彼が結婚を決めたのはわたしのせいだったんじゃないか。動機の全部がそれとは限らないけど多少の後押しになったのは多分事実だろう。だとしたらこの状況の責任の一端はわたしにもある。って自責も混じって、頭の中がぐるぐるになった。 あとで思えばその時のわたしは一種のパニック状態だったに違いない。いきなりぽん、と頭の中で弾けた思いつきがそのまま口から深く考える間もなく飛び出してきた。 「…柘彦さん。わたしと結婚しましょう」 「は」 さすがに彼も動揺こそ見せなかったが、おそらくあまりの唐突さに反応さえ間に合わなかったんだろう。わたしは顔を上げ、目をぱちくりとさせるレアな表情の彼を正面から真剣に見据えて彼が口を開く間も与えずひと息に畳みかけた。
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