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自称天才探偵、登場
1
朝の五時三十分に目覚ましが鳴った。薄目でスマホの位置を確認し、うめき声を上げながら狙いを定め、ストップボタンをねじ込むように押す。
こんな早朝にタイマーを設定した自分を、今更ながら恨む。カーテンの隙間から外を覗くと、辺りはまだ暗い。
なんなら真冬の五時半は、まだ朝と言うべき時間でもないのだ。しかも今日に限ってあまり眠ることができなかった。
甘えなのはわかっているが、二度寝をする言い訳としては十分だろう。そう自分に言い聞かせ、布団をかぶり、もう一度目をつぶった。
あの事件から数か月たった今も、体調は悪化していくばかりで、治る気配を見せない。
そのため、仕事である漫画の連載もしばらく休止してもらっていた。
ほぼ働いていない状態なので、せめて早寝早起きを心がけようとしていたのだが、自分を焦らせるものがなければ早寝も早起きも不可能であった。
そんなことを思いながら、だんだん意識が遠のいていくのを感じる。次目を覚ますのは、何時間後くらいだろうか——
たーたらーらーらーらららー
ちょうど意識が完全になくなろうかいうとき、軽快なリズムが鼓膜を刺激した。
この相棒のテーマソングは、スマホの着信音だ。
苛々しながら音を頼りに画面が激しくひび割れたスマホを探し出し画面を見ると、案の定ヤツからだった。
数秒間出ようかどうか迷ったが、今無視しても何回もかけてくるだろうからと、渋々通話ボタンをタップした。
「よお、休載中の漫画家。あんたの復活など誰も待ち望んでないぞ」
「開口一番に何だよ、日ノ本」
寝ぼけた耳に彼の声が響き、安心と殺意の入り混じったアンビバレンスな感情が僕を覆った。
一方の彼の口の悪さは、相変わらずである。
「俺はただ勘違い野郎に教えてあげただけだ」
「じゃあ僕も君に一つ教えてやろう。こんな朝早くに電話してくるのは非常識だ!」
「いい目覚ましになっただろう?」
うむ、確かにそれは否めないが。
「それで、こんな時間に何の用だ?」
「なあ世界堂、今から旅行に行かないか?」
「はぁ?」
いきなり何を言い出すのだ。世界堂灼こと僕は彼、日ノ本の言動に混乱するばかりだ。そうしていると、彼のため息がはっきりと聞こえた。
「いちいち〝はぁ?〟とか言ってんじゃねえ。お前の耳は節穴か?」
「節穴なのはいきなり意味不明なことを言い出す君の脳だと思うけどね」
やったぞ、見事なカウンターだ。
予想通りスマホの向こうからは呼吸音すら聞こえてこない。口の悪い日ノ本を、今日こそ打ち負かしたのだ。
‥‥‥。
しかし、本当に何も聞こえてこない。馬鹿らしいが、謝った方がいいのだろうか。
ピーッ、ピーッ、ピーッ
突如、電子音が僕の鼓膜を震わす。
咄嗟に画面を確認すると、電話が切れていた。
いや、切られていた。
僕は“すぐ逃げる”という日ノ本の常套手段に呆れながら電話をかけなおしてやった。
正直に言うと、旅行が何なのかも気になる。
そもそも日ノ本は生粋のインドア派で、自ら旅行に行こうとすることなどなかったはずだ。そんな彼に何があったのだろう。
「あ、もしもし。日ノ本?」
「悪いな、電波が悪くて切れた」
そんな嘘、通じるわけがない。
日ノ本の家の電波は、電話が途切れるほど悪くないはずだ。いきなり電波が悪くなるはずがない。
僕は苦しすぎる彼の嘘に失笑した。
僕は間違いなく日ノ本との口喧嘩に勝ち、そして日ノ本は負けた。
「はいはい。それで、さっき言った旅行ってなんだ?」
「旅行とは、見物・保養・調査などのため、居所を離れてよその——」
「そういう意味じゃない!」
「Wikipedia参照」
日ノ本の屁理屈が始まった。
一体全体、なぜここまでじれったくする必要があるのだろうか。ふとそんな疑問が湧いた。
そういえば、さっき彼は電波が悪かったと言っていた。電波がいきなり悪くなるはずがない、と思っていたが、もし日ノ本の現在地が彼の家ではないとしたら‥‥‥。
「——もしかして、僕のところに向かってる?」
「気づくのが遅いな。お前の脳は節穴か?」
「はあ」
見事にやられた。
確かに、よく考えてみれば僕と日ノ本の家の間にはトンネルがあった。いきなり電波が悪くなるとすれば、そこしかない。
そして、ここまでじれったく話したがらないのも。
「あとはお前のいる場所に行ってから話す」
「僕の?」
「そう言っただろ」
その言葉に思わず笑みがこぼれた。笑顔のまま、窓辺に駆け寄る。
通行人がまばらな真冬の光景を確認すると、僕は耐え切れずに笑い声を上げる。
「あはははは——」
「あははははははははは!」
「なぜ君が笑うんだ!」
せっかくの見せ場を日ノ本に邪魔された。少なくとも、彼が笑う状況ではないはずだ。なぜなら、ここは——
「お前は家にいないな」
「‥‥‥!」
僕は日ノ本の指摘に驚愕した。そう、その通りだ。
僕が今いるのは自宅などではなく、他でもない旅館だ。それも伊豆市に位置する、高級旅館である。
確かにそれは否定しようのない事実だ。
しかし、何故それが分かったのだ。
「なぜそれが分かったのか。簡単なことだ。
こんな早朝にもかかわらずお前はすぐに電話に出たな。その時点で俺はおかしいと思ったんだ。
この時間、お前はいつも寝ているはず。
ならベッドの傍らにスマホを置いておいたのか、違う。なぜならお前はベッドからスマホを落として画面を割ったことがあり、それ以降ベッドにスマホを置いておくのを避けていたからな。
では最初からお前が起きていたのか。お前みたいなだらけた生活をしている人間がたとえ目覚ましを設定していたとしても起きられるはずがない。どうせ起きてもやることがないから、というのを言い訳に二度寝でもしようとしていたのだろう。
ではなぜお前は電話にすぐ出られたのか。それは簡単。お前はベッドじゃないところに寝ているからだ。たとえば、布団とかな。
結論、お前は家ではないどこかにいる」
「あっ、あっああ‥‥‥」
あり得ない。いや、あり得たのか。彼の頭脳では、可能だったのだ。それを見抜くことが。
「どうせお前のことだから、伊豆にある高級旅館にでも泊まっているんだろう」
「‥‥‥な、なんで」
「お前みたいになんも考えずにのほほんと生きている奴の心中など、お見通しなんだよ」
結局日ノ本に完敗してしまった僕が、遠くに見える駅を呆然と眺めていると、ちょうど電車が停車した。
「いや、参ったよ」僕は我に返って、口を開いた。「しかし残念ながら、君との旅行は中止になったというわけだ」
誠に残念だ。すぐに開き直った僕は笑顔を取り戻す。日ノ本と行動すると何かしら事件に遭遇してしまうのが常だ。殺人事件だらけの旅行などご免だ。そんなリスクを背負って旅行するより、独りでのんびりと休暇を楽しむ方が、何倍も楽だ。
「それはどうかな?」
「‥‥‥え?」
「君の窓から、駅は見えるか?」
「う、うん」
「駅に停まった、踊り子が見えるか?」
「見える」
「じゃあ、今踊り子から降りてきた、俺が見えるか?」
「‥‥‥見える」
どうなってんだ、これは。
2
「君、電車の中で堂々と電話をしてたのか」
僕が独り言のように言うと、隣に座る日ノ本海一は関係ないようなすまし顔で鼻を鳴らした。どうやら図星らしい。信じられないほど常識を持っていない男だ。
ふと横を見ると、彼は艶のあるマッシュヘアを苛々しく掻きまわしていた。長い髪から覗く不機嫌そうな目は、斜め下を向いている。
日ノ本の横顔は確かに綺麗だったが、サイズが全くあっていないスウェットシャツや職人が履いていそうな緩いパンツを身に着けているところからして、ファッションセンスは皆無らしい。
もしかしたらそれが今どきの流行りなのかもしれないが、インターネットとまったく縁のない彼がそれを知っているはずがない。
「あとからお前を独りで来させようとしたんだが、まさかすでに伊豆にいるとはな」
「いや、それは酷すぎるでしょ」
「安心しろ。血と涙はある人間だ」
誰も日ノ本を血も涙もない人間だと言っていない。しかし、彼は人間ではないのではないか、と思ったことは何回かあった。彼は時に、人間のやることとは思えないような、とにかく常軌を逸した行為をするときがあるのだ。
「じゃあ訊くが、死体を見てまったく動揺しないのは何故だ?」
思わず、そんなことを訊いてしまった。そう、彼はどんな凄惨な死体を前にしても、動揺を見せたことは一度もなかったのだ。僕がその姿に動揺してしまったくらいである。
そのとき、口元に人差し指から押し付けられる。
「お前、ここバスの中だぞ?」
「あ」
盲点だった。日ノ本に指摘されて、改めてバスに揺られている自分に気づく。
はっと車内を見渡すも、僕たちを白い目で睨んでいる者はいないようだった。それに安堵すると、僕は今までの出来事を思い返した。
日ノ本からの電話で叩き起こされた僕は、今の旅館を無理やりチェックアウトされ、強制的に別の旅館に移されることとなった。
もう少し寛ぎたかったものの、とんだ迷惑にあってしまった。それから近くのレストランで軽く朝飯兼昼飯を食べてしばらくゆっくりしてから、今乗っているバスに乗車したのだった。
時刻はちょうど二時。気づけば起きてからだいぶ時間が経ってしまった。
旅館に向かうバスは、なおものんびりと進んでいく。
どうやらこのバスの乗客は皆、同じ旅館に向かっているらしかった。
僕たちは一番後ろの席に座っているため、車内がすべて見渡せた。
左側で騒いでいるのは七人組の男女で、おそらく大学生くらいだ。彼らのさらに奥にも若い男が二人座っている。こちらも会話を交わしている。
右に視線を向けると、今度は若い男性と女性が前後で座っていた。最初は見知らぬ人同士かと思っていたが、男性の方がときどき後ろを振り返って話しているところから見て、夫婦に違いないと思った。
しかし、なぜわざわざ前後に座っているのだろう。僕は少し不思議に思った。
「世界堂、これから向かうのは『小雪』という旅館でな」不意に日ノ本が話し始め
た。「冬しか泊まる人がいなさそうな名前がまた面白いんだ」
「それで、なんでわざわざ?」
僕がそう訊くと、彼はいかにも嬉しそうな顔で続けた。
「捜査の依頼があったんだ」
「依頼?」
「そう言ってるだろ。その旅館の主が、何者かに命を狙われているというんだ。それで、この俺に見張ってほしいとね」
なるほど。聞いていると彼の嫌いそうな種類の依頼だが。
「君に務まるのか?」
「当たり前だ。この天才に、できないことなどない」
「捜査の依頼を無慈悲に断っている君が、か?」
この日ノ本海一とかいう男は、自称探偵で、自称天才だ。
最初は捜査の依頼などまったくなかったため、僕が描いた漫画を講評してくれることを条件に毎回お金を支払っていたのだが、あの事件を解決して以降、彼のもとに次々と依頼が舞い込んできたのだ。つまり今の彼は、明らかに浮かれている。
「俺が、大切なお客様の依頼を断るわけがないだろう?」
「分かった、金だな」
「あはは!」
僕が指摘すると、彼は恍惚に満ちた表情で笑い声を上げる。ここまで分かりやすい人はいないだろう。
「それで、依頼を受けたらいくらもらえるんだ?」
「教えない」
「僕も手伝ってるんだから、僕もその捜査料金をもらう権利があると思うな」
「俺は思わない。諦めろ」
「わざわざ僕を旅館から追い出したくせに」
「‥‥‥しょうがないな。くそっ、何なら呼ばなきゃよかった」
「それはないだろ」
「まあ、殺人事件なんか起きなければいいが」
「‥‥‥やめろよ、日ノ本」
日ノ本の不謹慎な言葉に、僕は怒り気味に言った。確かに同感だが、殺人事件などそんな頻繁に起きるものではない。
起きるはずが——
バスが停車し、ふと窓から外を見ると旅館らしき建物があった。入り口の看板には白い字で『小雪』と書いてある。この雰囲気だと、本当に冬以外客が来なさそうだ。しかし、今まで泊まっていた高級旅館の後に来ると、多少見劣りはあるものの確かに立派な旅館だ。
ドアが開くと、あの七人組が我先にと降りて行く。
ふと窓から遠くを見ると、てっぺんが白銀に輝く山々が連なって、幻想的な世界を創り出していた。伊豆には昨日から滞在しているのだが、やはりこの景色はいつ見ても見惚れてしまう。
「降りるぞ、世界堂」
「あ、うん」
いつのまに賑やかだったバスの中では静寂が訪れ、乗客も僕たち二人だけになっていた。
前に視線を向けると、着物姿の女性が笑顔でこちらを迎えていた。
「見ろよ、世界堂。彼らはあんな下衆な作り笑いで俺たちを迎えるつもりだぞ」
「別にいいじゃないか」
彼の毒舌の矛先は僕に限っていない。道行く人に所かまわず暴言を吐いていくのである。バスの中だったから彼らには聞こえなかっただろうが、もし目の前にいたとしても平気で歯に衣着せぬ物言いをしてしまうだろう。
無言で僕たちはバスを降りる。その途端、凍てつくような寒さが襲った。暖房の利いたバスに揺られていてついつい忘れてしまっていたが、今は冬の真っただ中だ。
地面を見ると微かに雪が降った痕跡があり、気を抜くと滑ってしまいそうだ。そんな中、まったく気にすることなく、さっさと日ノ本は進んでいく。
「はやく来い」
「はいはい」
日ノ本が入り口の前に立つと、自動扉が開き、二人を招き入れた。旅館に入るとすぐ横にカウンターがあり、そこで何人かが旅館の説明を受けているところだった。
日ノ本もそこに向かう。
「依頼を受けた日ノ本だが?」
僕が近くに置かれたソファに座り待っていると、どこか不機嫌そうな顔をして日ノ本が戻ってきた。
「どうしたんだ?」
「こんなところ旅館じゃねえ。ただの宿だ」
「は?」
「見ろよ、この間取り図。この建物、三階までしかねえじゃねえか! しかも部屋は十数部屋だけ。しかもまったく掃除がされていないようだ。埃だらけ。ああ、確かに『小雪』だ。埃が雪が積もっているように見えるからね!」
「なんでそんな怒るんだよ。っていうか、何を期待していたんだ?」
一見よくある小さい旅館だが、それでも日ノ本の怒りに触れてしまったらしい。
「せっかく亀見市からここまで来てやったのに、こんな小汚い場所で——」
「いい加減やめてくれよ。というか、まず君の出で立ちが旅館に泊まるようには見えないんだが」
それもそのはず。彼はウェストバッグ一つで今まで行動していたのだ。その中にまさか着替えが入っているわけではないだろう。
もちろん、もともと一泊する予定だった僕はスーツケースを持っていた。
「俺はお前とは違ってミニマリストなんだ。一切無駄がないように生きてるんだよ」
「はあ‥‥‥」
ふと旅館を見渡してみる。入り口から見て奥には部屋が続いていて、そのすぐ横には二階に入る階段があった。後ろはお土産が売っているスペースだ。そして傍らに、小さな噴水があった。
しかも少し変わっていて、噴水口が八つもある。さらにその噴水口は龍のような形になっていて——
「気になります?」
「うわあ⁉」
背後で声がして、僕は思わず声を上げた。振り向くと、そこには着物姿の若い女性が佇んでいた。それもかなりの美人である。
「世界堂、聞かれているだろ。質疑応答だ」
そう日ノ本が急かすと、女性はふっと笑った。
「ヤマタノオロチはご存知ですか?」
「ヤマタノオロチ、あ、は、はい。確か、スサノオが倒したとかいう‥‥‥」
この八つの首を持つ龍には見覚えがあったが、これがヤマタノオロチというわけか。しかし、八つもの首を持つ生き物が実際に存在したら、かなり恐ろしい。
「このちょうど『小雪』が建っている場所には、ヤマタノオロチの伝承があるんです」
「へ、へえ‥‥‥」
実にどうでもいい知識だ、と心の中で呟く。
「失礼ですが、お名前は?」
「世界堂です。世界堂灼」
彼女の胸元に付けられた名札を確認すると、そちらは見崎とあった。
「世界堂さん‥‥‥実家が画材専門店だったり?」
「いやぁ、違うんですよ。実はぺ——」
「見崎さん」そこでカウンターから声がかかる。「手伝ってぇ~」
「あ、はい! 今行きます」
そう言って、見崎は僕に向き直ると笑顔で一礼をし、去っていった。
しばらく呆然としていると、視界に満面の笑みの日ノ本が入り込む。
「類は友を呼ぶということわざが正しいとすれば、あの女は馬鹿だ。まあ、見ればわかるが」彼はなおも満面の笑みだ。「さて、早速この館の主人に挨拶でもしようではないか」
「う、うん‥‥‥」
「おーい、従業員! 主のところに案内してくれ。ほら、世界堂、行くぞ」
耳が熱くなっているのを感じながら、僕は歩を進めた。
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