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おちゃめさん
その男を
可愛いと思うか
海洋の生物を想像するか
それは
あんたの自由だ
【おちゃめさん】
「ちゃもく、じゃなくてさめ、なんさ。」
あらそうかい、変わった名前ですね。
そう言いながら岸和田はちゃもく、じゃなくてさめ。
茶目の顔をまじまじと観察した。
けして良い男とは言えない面構えだが、色気はあった。
年相応の皺、多少あばたの後、粗い肌は浅黒い。
ざんばらの髪、筋肉の劣化でたるんだ瞼。
彼はいつでも着古したスーツだ。
古びたバーのカウンターで身を守るように背中を縮めて酒を飲む男は常連客からはチャメさんと呼ばれる。
それが彼における情報の全てだ。
初めての出会いは岸和田が彼の席を知らずに座った事だった。
酒を飲んでいると、面倒そうな声と共に彼は岸和田の肩を叩いてきた。
「おい、兄さん。俺はお前がハナタレ小僧ん時からこの席に座ってるんだ。悪いが席を譲っちゃくれないか。他の席はどうもケツの塩梅が悪い」
「そりゃあチャメさん、あんたがその椅子をすりへらして自分のケツの形にしたからじゃないか」
気だるく気高いママが笑いながら言えば手下の無愛想なバーテンが岸和田の座っている席の前にスコッチの水割りを黙って置いた。
若い岸和田が退く事が前提の接客に、とりあえず横の席に移動をした。
すると彼はほんにゃ、と頬を緩ませ笑ったのだ。
「すまんな、すまんな」
意外にかわゆい笑顔、そこはかとなく胸のときめきを感じたゲイの老け専岸和田は恋をめっきり自覚した。
茶目はしがないやくざだった。
女の売春の斡旋や集金なんかが主で、中学も途中退場だ。
話を聞くにつれなんとも才能のない男だと思ったが、岸和田と友情を育む才能だけはかろうじてあった。
「オリャ、半人前だがこの年まで半人前でも別に後悔した事ねえよ。物を買うのでもポッケに一万入れときゃ大概はいける。ゼロが四つ以下の物を買えばいいからな。だから小銭はじぇーんぶ」
でっかいゴミ箱に貯めてる訳さ。
彼はよく自分の馬鹿さ加減を笑い話に加工して岸和田に話した。
サラリーマンの岸和田には、笑いも刺激のある話もできなかったが面白い、面白いと反応するだけで良かった。
酒があり煙草があり友達がいれば何万回同じ話だろうと楽しい酒は飲める。
茶目の癖がうつり、いつしか身を守るように肩を縮めて酒を飲むようになった頃、彼は一度こんな話をした。
「鮫はよ、遊びが好きなんだ。獲物を見つけたら仲間を皆集めてオビレで獲物を海のお空にポーンと投げる。ボール代わりにして皆で仲良くバレーボールだ。あいつらトスやレシーブなんか軽々やってのけるのさ。相手が死のうが泣こうが鮫はその遊びが大好きだから」
飽きるまで、ボールが形をなさなくなるまで奴らは遊びを続けるのだ。
「だから、海で鮫の群れに遭遇した時はよ。そこに顔見知りの個体を見つけても」
見つからないようにとっと逃げ出した方がいいんだあね。
うふは、そんな笑いを吐き出しながら岸和田を見る茶目はいつもの冴えない男だったが、その話は茶目っ気も面白くもなかった。
そして、脈絡もなく切り出した話の前には岸和田が「好き」だと言ったというくだりがある事を考えるならば脅し、なのかも知れない。
彼との付き合いは長い。恋を育んでいる年月も早何年になるか。
はぐらかされて何年になるか。
あれからも彼とはバーでしょっちゅう会う。同じ話で笑い合う。
だが岸和田が次の一歩を踏み出せないでいるのは、彼がたんなるお茶目でうだつの上がらないやくざなのか、仲間とボールを見つけて世間の海でバレーボールを楽しむ残酷な男なのか。皆目見当がつかないし、回遊しているであろう彼を街中で見つける勇気がないのでいまだに彼とは友人である。
ケリをつけるにはリスクが大きすぎる恋をした物だと今夜もため息をつきながら、肩を縮めて岸和田は友達を待っている。
【おちゃめさん】
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