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夏の満月は低い。
海を照らす月明かりは、波の揺れで光の粒がキラキラと光る。
街灯のない砂浜から見るそんな夜の海は幻想的で、妖しさがあった。
砂浜からのびる桟橋の先に座り込み、キラキラと光の粒を揺らす海面を見ていた。
いろいろと思うことがある。
島のこと、仕事のこと、自分のこと、それと……。
まとめきれない考えはいつも隅に置いておいたために、もう最後の夏なのだ。
もやもやとした頭をすっきりさせようと、俺は立ち上がった。
島民100人にも満たないこの離れ島に若者はわずかで、日が落ちてからこんな砂浜にやってくる物好きな年配達はいない。
麻のシャツとサンダルを脱ぎ桟橋に置くと、あとの衣服はそのままに、海へと身を投げた。
水の冷たさが心地良い。
仰向けで水面に浮くと、目の前に広がるのは月明かりでなく満点の星空。
月は低いのに、星はあんなに遠くで光っている。
吸い込まれそうなほどの暗い夜空。小さな星達は懸命に光り輝き、存在を教えていた。
そんな圧巻な星空から目を背けるように、俺はまぶたを閉じる。
波の揺れが穏やかに体を揺らす。
水中にある耳は、遠くでぶつかる水の音を拾った。
そして、桟橋を駆ける足音。
誰だ、とまぶたを開けると、視界に飛び込んできたのは島で唯一の教え子である女の子の顔で。
——そのまま、水中に押し込められた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
いくら手足を動かしても沈むだけの私の体は力強く抱えられ、そして桟橋に引きずり上げられた。
海水を飲んで苦しく、上半身を起こして腕で支えたままむせ込んだ。
「おま、泳げないのに、飛び込んでくるなよ!」
息が上がり途切れ途切れで上から怒鳴りつける先生に、私は肩を竦めた。
でも、言いたいことはある。
「げほっげほっ。だっ、だって。溺れてるのかと」
むせる私の背を、先生は怒鳴りつけた勢いとは裏腹に優しく撫でる。
盛大なため息は呆れか、怒りを落ち着けるためか。
「げほっ、はぁ。鼻痛い……」
「当たり前だ」
先生は私の呼吸が落ちつくと背を撫でるのをやめ、桟橋にゴロンと大の字になった。
両手で顔を覆っている。
「はぁ〜もう……焦った。勘弁してくれ……」
「……すみません」
いたたまれず、先生に背を向けて体育座りをした。
怒るほどに心配したのだと、そうさせてしまったことが途端に恥ずかしく思えた。
「……いや、俺も悪かった。助けてくれようとしたんだよな」
先生が体を起こした。そんな気配を感じると同時に、背中にくすぐったい感触。
私の濡れた髪に、先生が指を絡ませていた。
「でも、無鉄砲に飛び込むのはやめてくれ。そんなことされたら、心臓がいくつあっても足りない」
「……はい」
俯いた先生のおでこは、私の背中に触れるか触れないかの距離。
ドキドキとうるさいこの心臓の音が聞かれませんように。
波の音が、水のぶつかる音が。少しでも大きく、絶え間なく鳴ってほしいと思うばかりだった。
この島で生まれ育ち、あっという間に高校3年生の夏。
かつては島民も多く、学校も充実していたと聞くが今では広い校舎に通うのは私1人。
それと、島生まれで実家住まいの先生だけだ。
他教科の先生は授業がある日だけ本土から船で通ってくれていたが、時代の変化とともにそれもなくなった。
いわゆるリモート授業だ。
便利な時代に生まれ、そして先生がこの島に留まってくれたことで私はこの島で学生を続けられていた。
10歳も違うが、先生はまだ20代だ。
ちゃんとした高校でちゃんと教師をしたいだろうに。
私のため、などとは言わないが。自分の母校の最後を見届けたいと、善意で私の担任をしてくれている。
感謝してもしきれない、恩人なのだ。
そして、それとは別に。
特別な想いを募らせたこの気持ち。
恋心だというのは、きっと先生にバレている。
「可愛い生徒」だと一線を引く先生は、ふとした瞬間に私の髪に触れる。
頭を撫でたり、頬を触ったり。
まるで愛おしいものに触れるように、壊さないように慎重に。
先生の触れる手が優しいから、私は諦めきれずにいる。
せめて、学生の間だけでもと。
波間に時折小魚が跳ねる。
鱗が月明かりを反射し、瞬きの途中で水中へと消えた。
先生と私は、桟橋の上から静かな海を眺めていた。
2人の下にはそれぞれの水溜りを作って。
「どうして服のまま海に?」
「んー、暑かったから」
「嘘です」
「んー……」
ぱちゃん、とまた跳ねた。
あぐらで頬杖をつく先生の横顔は月明かりで照らされ、陰が多い。
そのせいかどうも顔色が悪く見えた。
「何か悩みごとですか?」
「……まぁ、いろいろと考えてて。こんがらがったから頭冷やそうとしただけだよ」
いつもならこのくらいで、へらっと顔を崩して話を逸らされる。
大人の悩みだよ、なんて、こちらが踏み込めない理由なんかをつけて。
それでも今日は、そんな雰囲気を先生から感じることはなかった。
「もう、夏なんだなぁと思ってさ。あっという間だな」
「……そうですね」
「お前は上京するんだろ?」
「はい。進路希望で出した通りです」
ふと、先生が私を見た。
「寂しくなるな……」
そう言って、柔らかな笑みをつくる。
ほんのわずかに憂いを帯びているのは、私の求めている気持ちが含まれているんだろうか。
大人はわからない。簡単にはぐらかされてしまう。
「先生が薦めたんじゃないですか。島を出るなら、とことん都会へと」
「そうだよ。こんな小さな島じゃ経験できないことがたくさんある。友達、恋人、出会いだって今以上に」
「……先生以外に?」
虚をついたが、先生の表情の変化は一瞬だった。
今度の笑みは、大人の余裕。
「もちろん」
「……先生はズルいです」
「なんのことだか」
先生は放ってあった麻のシャツを手に取ると、私の肩にかけた。
立ち上がり、手を差し伸べてくれる。
「帰ろう。送るよ」
私は素直に先生の手を取った。
腕を引かれ、すんなりと立ち上がれた。
そのまま引き抜かれそうになった手を、ぎゅっと握って引き留める。
「先生、お盆の花火大会は予定がありますか?」
「いや、ないけど」
「一緒に見たいです」
「……ん、わかった」
返事をもらえたので、パッと手を離した。
「楽しみです」
そのまま歩き出すと、先生は私の後ろを数歩遅れて歩き出した。
先生はなんともいえない表情で、自身の手を見つめている。私の手を繋いだ、その手のひらを。
何を考えているのかわからないけど、なんとなくむず痒くて、私はそれに気づかないフリをして歩いた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
この島から少し離れた小島から打ち上げられる花火は、漆黒の海を色とりどりに染め上げる。
花火を見上げるだけでなく、水面に写った花火も同時に楽しむのだ。
島民は『鏡花火』と呼んでいた。
よって、島の中央にある高台は、打ち上がる花火を見る絶景のスポットとなっている。
なのだが。
「なんで、桟橋で?」
臙脂と生成の格子柄、濃紺の帯で大人びた浴衣を着た彼女に問う。
浴衣のまま砂だらけの桟橋に座っているが、あいにく下に敷いてやれるハンカチなど持っていなかった。
「高台は人が多いですし」
「そうだけど」
同じく濃紺の帯で鈍色の浴衣を着たのだが、桟橋に来るまでに草履は砂にまみれた。
鬱陶しいのでさっさと脱いで、今は裸足だ。
「高台なら、出店もちょっとは出てるじゃん。こんな砂浜で楽しめる?」
「楽しいですよ。先生が一緒なら」
月明かりの下、島育ちにしては色白な彼女の頰が染まった。
不覚にもドキッとしてしまうのは、いつもの制服姿とは違うから。
(直球なんだよなぁ……)
経験が未熟な故か、それとも俺が歳をとったせいか。
あどけない彼女の好意はいつもまっすぐで、くすぐったい。
可愛いと思ってしまうのはもう、生徒だということを通り越して見ているからだ。
(でも、生徒だ)
それだけが、俺を止める理性だった。
「あ、先生。始まりますよ」
彼女が夜空を指差す。
高い笛の音が辺りに響き渡り、お腹に響く爆発音。
視界には、夜空いっぱいの鮮やかな光の花が咲く。
色とりどりの花は次々と打ち上げられては一瞬で散り、水面に写る花もまた、一瞬で消える。
「ここでも綺麗に見えるもんだな」
「高台とはまた違いますね」
波に乗って光の花の欠片が流れてくる。
白やピンク、青に緑。黄色と赤も、海の黒さに呑まれることなく咲いていた。
高台からだと水面に写った花火を楽しむが、ここでは流れてくる花を楽しめた。
ゆらゆらと揺れる波間の花は見ていると心地よく、心をほぐしていく。
「きゃっ」
桟橋のすぐ下、波間の花に混じって揺れる影が見えた。
海中にいる、大きな影。
この島の周辺は海洋生物が豊富で、イルカが泳いでいればサメもいる。
驚いた彼女は俺にしがみついた。
「少し離れようか」
サメが桟橋に乗り上げてくることはないだろうが、念のために。
彼女を抱き留めたまま立ち上がろうとすると、海中からぬっと姿を現したのは。
「あ……ウミガメ、ですね……」
大きな瞳がこちらに向いたが、すぐにふいとそっぽを向いて泳いでいってしまった。
「花火に驚いて出てきたのかもな。っと、悪い」
飛び込んできたので、つい手を彼女に回してしまっていた。
たいしたことじゃないと自分に言い聞かせ、何でもないように手を離した。
「……」
「……」
すぐに離れるだろうと思っていたのに、予想に反し彼女は俺の浴衣をぎゅっと掴んで離れようとしない。
小さく、消え入りそうな声でつぶやいた。
「もう少しだけ、このままでいたいです……」
「いや、でも」
「私、先生のことが好きです」
「……」
「迷惑なら突き放してください」
自分の胸元に寄り添う、細い肩に手をまわしてしまいそうになる。
まっすぐで汚れのない彼女の想い。
手を伸ばせれば、一言「俺も」と言ってしまえれば、どんなに楽だろうか。
ふぅ、と一息つく。
抱き寄せないかわりに、ぽんぽんと頭を撫でて誤魔化す。
動揺がバレないように。
「突き放すことはできない。でも、応えることもできない」
「……それは」
彼女は俺から離れると、まっすぐに見つめてくる。
「教師だから、ですか?」
夜空に散る光に照らされた彼女の顔は美しく、息をするのを忘れてしまいそうなほどだった。
純粋すぎるその想いをずっとかわし続けてきた。
欲に負けそうな自分を、なんとか誤魔化し続けてきた。
(——たぶん、俺の気持ちはバレてるんだろうな)
彼女のまっすぐな視線を受け止めて、俺は頷いた。
「そうだ」
「じゃあ、それを気にしている場合じゃない状況では?」
「……と、いうと?」
彼女は薄く笑って、俺の胸をトンと押した。
桟橋から落ちていく彼女。
飛沫が上がり、彼女の姿は海へと消えた。
「なっ……!!」
泳げないのに飛び込むなと、ごく最近伝えたばかりのはずだ。
なかば反射で海へ飛び込み、夜空からの光を頼りに沈む彼女の後を追う。
浴衣が水中ではだける。
水を掻くたびに布がまとわりつき、邪魔で仕方ない。
それでも必死に彼女へと手を伸ばし、捕まえた。
あとはがむしゃらに光を目指して泳ぐだけ。
なんの抵抗もしない彼女を落とさないようにしっかりと抱き、桟橋へ引きずり上げた。
「バカやろ、何考えて……!」
勢いよく酸素を取り込みながら、切れ切れに言う。
だが、返事が返ってこない。
彼女を見ると、起き上がらずに横たわったままだった。
「お、おい!」
慌てて彼女の頰を軽く叩いた。
反応はなく、まぶたは閉じたまま。
水を飲んだのだろうか?
迷ってる暇はないと、顔を近づけた。
形のいい柔らかな唇に、自らの唇が重なるその瞬間に。
「……人工呼吸なら、教師も生徒も関係ないですよね?」
彼女がつぶやいた。
(——くそっ)
彼女の意図がわかったところで、もう止められない。
溢れ出た欲求は本能のままに、彼女の唇を求めた。
最初は浅く。それからだんだんと深く、噛みつくように。
酸素を欲して逃れようとする唇を何度も塞いで。
たっぷりと堪能して、唇を離した。
見下ろすと、頰を紅潮させて息を整える彼女と目が合う。
「せ、せんせ……」
「やめろ。今、先生って呼ぶな」
ぎゅっと抱きすくめて、彼女の顔を自分の胸に押し当てた。
「先生」と呼ばせないように。自己嫌悪してしまう。
だが、それ以上にこの締まらない顔を見られたくなかった。
「……あの、せんせ」
「先生っていうな」
「…………心臓がすごいですけど」
俺の胸に顔を押し当てた彼女には、よく伝わっただろう。
花火よりもうるさく高鳴る俺の心音が。
自分でも、嫌というほどわかるのだから。
「それが、俺の本当の気持ち。……ったく、苦労して誤魔化してきたのに」
後の嘆きはひとりごとだったが、彼女は胸の中で遠慮なく声を漏らして笑った。
俺の腕から抜け出ると、くすぐったそうな笑顔を浮かべて。
「最後の夏に、いい思い出ができました」
満足そうに言った。
笛の音が空へ駆け上がっていく。
大きな爆発音は、今までで一番大きく空気を振動させる。
「さっきのを思い出にすんなよ」
火花が降る夜空に、海には光の花が咲き乱れて。
彼女の見開いた瞳にも、花は光を宿した。
消えていく名残惜しさなど、感じさせる隙を与えないように。
今度は優しく、それでいて深く。
先ほどのキスよりも思い出に残るよう、甘く、ゆっくりと唇を合わせた。
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