わからない

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「惨めだ」 と 私はつぶやく。 もう空になってしまったストーブの灯油缶を片手に階段を降りながら私は言った。途中で立ち止まり壁にもたれ、描かれているいくつかの落書きを見た。 「こんなに楽しかった時もあったのに」 落書きは微笑をたたえ活き活きと壁中を駆け抜けている。今の私と比べものにならないくらいに。私は灯油を補充することを思い出し缶を壁にぶつけながら階段を降りて行った。 暖かかった東京を離れて生まれ育った雪国に帰って来て、嬉しいはずなのにいったい、この屈辱感はなんだろう。ほんの少しの東京暮らしが私を変えたのか?いいえ、変わるはずがない。変わったのならそれはきっと私の母だろう。私に対しての母の態度の変わりようはいったい?帰って来てからまるで他人にでもなったようにお互いにぎこちなく、いずれは戻るだろうと思っていたらさらに悪化しそれ以上になってしまった。今では私はあの人の家政婦である。夕飯を作らなかったためにどやされ、腹は立ったが「大人気ない」と思って何も言わずに作り始めたらご飯を炊き過ぎだとなぜか怒られ、外で嫌なことがあったと訳もなく当たり散らす。 私はあなたの何なのですか? 私には負い目があった。せっかく行かせてくれた学校もろくに行かずに辞めて、働いてもバイトぐらいで、あまり続かず。きっと、あの人の、世間体を気にするあの人には今のこの現状の私は気に入らないのだろう。けど、ほんの数ヶ月で人はここまで変わるものだろうか?前の、東京に行く前の母は確かに私の知っている母であった。 今のあの人はいったい誰だろう? 私の目に映るのはまるで見たことのない、優しい仮面を剥ぎ取った心から醜く、口が耳まで裂けた知らない女だ。 こうして帰ってから約1か月も過ぎていない今、私はどうしても化け物と暮らしている実感しかなかった。 あの人に話しかけられるとうまく答えられず私はオドオドとして言葉が出てこない。失敗することは許されず、言いつけはきちんと出来ていなければいけない。 今日も時間通りに早く起きることが出来なかった私に 「早く着替えなさい、いつまでそんな格好でいるつもり?食器は洗ったの?」 「あ、、、今起きたばかりで、、まだ」 針のような言葉が一段とトゲトゲしくなり、釣り上がった眉はよりいっそうシワを寄せて上がった。 「いい加減にしなさいよ!毎日毎日遅くまで寝て!ちゃんとやっておきなさいよ!」 言葉とともに戸も閉めらた。 深いため息をついていると閉められたはずの戸が開き、再び不機嫌そうな顔が目の前に現れた。 「ちょっと、今日何人来るの?まったくお金もないのに人なんか呼ぶんじゃないわよ!」 私はもごもごと言いにくそうに口の中で言った。 「あの、お金置いていってくれれば私が買って来るから」 「あとで働いてちゃんと返してよ」 しぶしぶバッグから財布を取り出し5千円札を無造作に私に投げてよこす。 私は床に落ちたお札をただただ眺めていた。 「もちろん、掃除もしといてよ」 さっきよりずっと力を入れて戸は閉められた。 私はのろのろとお札を拾い上げ、閉じられた戸を見つめた。 私はこんな思いをしてこの人からお金を借りなければいけないんだ。 養ってもらうことがこれほどまで苦痛だったなど、生まれてきたことを後悔させてくれるなんて。 あの人らしいではないか。 ふと、 あの厳しいなりにも優しかった私の母は、私のいない間にもしかすると食べられたのではなないかと、ふつふつと疑問のような答えのような気持ちがわいてきた。 あぁそうかも。 きっと逃げられなかったんだ。 だって母はちょっと運動が苦手で足もそんなに早くない。 私はそう、自分に言い聞かせることによってこの人を心から憎めた。 この人は他人でまるで知らない人。 まして私の大切な母を食べてしまった恐ろしい化け物。 殺せるのよね、この人だと。
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