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「貴方はこう思ってらっしゃるのね? 私は所謂、善人で、あの人の為にこの身を犠牲にでもして、やむを得ず姦通していたのだと」
「違うと申すのか?」
「さぁ、どうだったのでしょうね。けれど、貴方みたいな人には何があったのかなんて、話したくもありません。絶対に嫌だわ」
「それは、何故だ……」
「貴方が私を善人だと、思い込もうとしているからです。私を善人に仕立てあげようとしてらっしゃるんだもの。善人なんて……そんなお人はこの世にもあの世にもおりませんのにね」
緑は両足から下駄を外すと、足の指で下駄の鼻緒を摘まみ、ちゃぷちゃぷと川の水に下駄を溺れさせて、高瀬舟を漕ぐように指で摘まんだ下駄を弄んだ。
「悪人もまた然りです。私はそんなお人はついぞ見たことなんてありませんもの」
緑はそう告げると、またしても口許を着物の袖で隠してしまい、六文太から顔を背けて、決して目を合わせようとはしなかった。
緑のその言葉を聞いた六文太は、すぐさま反論しようとしたが、直ぐに思いとどまった。いくつかの疑念が生まれた為である。
(何故、緑さんはわしに己の過去について、頑なに話そうとせんのだ。情状酌量を得て六文を施して貰えるとは思わんのか? それともその男と不貞を働いていたという話は真であったのだろうか……)
(いやまてよ。もしや誰かを庇っておるのか? 悪人について知らぬと言ったが……。私が悪人と見なすような者が身近におったのではないか? それで話そうとせんのではないか? その何者かを庇って……)
どれだけ六文太が思案を巡らしても、答えは出なかった。緑は決して、己の過去や死んだ経緯について話そうとはしないのだから。
その答えは永久に藪の中であった。それを知るのは、緑と存在するかもわからない何者かと、あるいはお釈迦様のみなのかもしれない。
いずれにしても、口許に着物の袖を当てて、表情を悟られぬようにしている緑の心中は誰にもわからず閉ざされたままであった。
緑が誰の身を憂いて口を閉ざしているのか。それともその考え自体が誤りに過ぎぬということなのか。
狂ったように、からからと廻り続けて嗤う風車を眺めても答えは出ない。
六文太には、最後まで緑の心中が解せなかった。
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