地獄篇

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「舟をお出しになって頂戴。さぁ、はやく!」 「言われるまでもねぇや」と、緑に急かされた源六は、唾を三途の川へと吐き捨てると、櫂を手に取り、その黒い高瀬舟を川の瀬から解き放とうとしたのだが、  どぷん、と音を立てた高瀬舟の後方が三途の川の瀬の方角へと深く沈んでしまい、源六は体勢を崩した。  何事かと、川の瀬の方へと振り返った源六は、驚愕から思わず櫂を手から放してしまうところであった。  高瀬舟が深く傾いた元凶が、源六の目の前にいた。舟に招かざる客人が乗り込んでいたのだ。 「源六よ。わしも連れていくがよい」  高瀬舟に乗り込んだのは、六文太であった。六文太の奇行に目を見開いた源六は櫂を漕ぐのを止めて、揺れる高瀬舟の上を歩き、六文太に詰め寄った。 「どうしたのだ。これは一体なんの真似だ」 「お主はわしに先ほどこう言ったな。“六文を持ってねぇ悪人なら、俺が地獄に放りこまなきゃならんからな”、と」 「それがなんだと言うのだ……」 「わしはこの通り、ほれ!六文を持っておらぬではないか! それは詰まるところ、わしもまた“悪人”だということだ。これは傑作だ! ふふ、ははは!あっはっはっはっ! これが笑わずにいられるか!」  六文太は自らを嘲笑うかのように、声をあげて笑い始めた。六文太のその表情を見た源六は身も竦む思いであった。喜びと怒りと哀しみが入り混ざったその表情は、地獄の鬼どもと変わらぬ異形のそれであった。 「そういえば、お主も六文を持っておらぬな、源六よ! それはつまり、お主もまたわしと同じく悪人ということよ! 長年のよしみだ。共に地獄に堕ちようぞ! わっはっはっは」 「どうしたのだ、六文太よ! 気が違ったか! 正気を取り戻さんか、このおおうつけ者が!」  二人の船頭が押し問答をして、取っ組み合いになった。黒い高瀬舟が揺れる度に、三途の川の波が、舟の中へと入り込み、黒い紋様を点々と刻印しては、涙のように、舟の中をかき乱していた。 「降りんか! 大馬鹿者め!」  六文太は、とうとう源六から突き飛ばされて、揺れる高瀬舟から川の瀬の砂利の群れへと放り出された。勢いあまって俯せに倒れた六文太は、小石の群れに突き刺さった風車と同じように高笑いを止めることをせずに、砂利の石飛礫を握り締めながら、項垂れていた。 「こんなことは、あってはならぬ。赦されぬのだ……」  狂った高笑いをあげていた六文太の笑い声が徐々に嘆きへと変貌を遂げて、六文太は嗚咽を漏らし始めた。  六文太は正気を失った。この船頭の滑稽な姿を見た者は誰もがそう言うであろう。  六文太が正気を失ったのが果たして何時からなのかは、六文太のみの知るところ。
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