地獄篇

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 六文太は眼を見開いて、緑の顔を仰ぐと、直ぐ様彼女に真意を問い質した。 「あるお方とは一体誰のことだ。緑さんの親しい人か? 嗚呼、そうか。さては件の僧侶のことだな」  六文太は母親の形見でもある簪を渡して欲しいと緑が願う相手が誰なのか合点がいった気がした。その者とは緑が姦通していたという僧侶のことだと、六文太は考えたのだが、 「私がこの簪を渡して欲しいのが、どなたなのかはお答えできません。どうかお許しください」  そう応えた緑は簪を握る六文太の掌を撫でると、朗らかに口許を緩めて微笑んだ。 「何故だ? それでは緑さんがこの簪を渡して欲しいと願う相手が誰かが解らぬではないか。せめて姿形か背格好か、名前だけでも教えてはもらえぬか」  六文太は緑の願いを聞き届けて、いずれこの三途の川に訪れるというあるについて、彼女から聞き出そうとした。 「駄目です。教えられません。けれど、どうか安心してください。そのお方は必ずや貴方の前に現れますから」 「話してはくれぬのか……。だが、相わかった。必ずやその者にこの簪を渡してみせよう」  生気を取り戻した六文太は名も知らぬ、姿も知らぬ、いつ訪れるかも定かではない何者かに緑の簪を渡すことを誓った。  それが緑を見送ることしかできない自らの成しうる唯一の罪滅ぼしであると心得た為であった。 「よかった。これで私にはもう思い残すことはございません」  緑はそう言うと、折り曲げていた膝を六文太の頭からどけて立ち上がり、二三歩歩いて六文太へと背を向けて進んでいく。  四歩五歩六歩と下駄を鳴らして進んだ緑は腰を折り曲げると、川原に突き刺さった紅い風車をひとつ抜き取った。  からから、と廻り続ける風車を簪の代わりに後ろ髪へと横から突き刺した緑は川原で寝そべる六文太の方へと振り向いた。 「もはや後悔も未練もございません。地獄に赴くことでさえ、恐ろしくはありません」  振り返った緑は、まるで憑き物が落ちたかのような天真爛漫な微笑みを浮かべた。喜びと哀しみと安楽さを宿したその表情は、慈愛溢れる菩薩の相貌そのものであった。 「それでは六文太殿。お達者で」  緑が簪の代わりに後ろ髪に突き刺した風車は、尚も時計の針とは真逆に廻り続けている。  人の犯した罪に、その過ちに、死んでさえも尚、延々と咎を求め続ける人間の罪深さを象徴したかのようなその風車を簪の代わりにして、緑は黒い高瀬舟へと乗り込んだ。  それが、誰に命じられた訳でもなく、己の魂の在り方を自ら選びぬいたひとりの女の逝き様であった。  ──結局のところ、緑が犯した罪とはどのようなものであったのだろうか。  いや、きっと自分の生き方に正直であったことであろうな、と六文太は緑という人間の全てを漸く悟った気がした。
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