地獄篇

18/19
前へ
/19ページ
次へ
 今度こそようやく高瀬舟へと乗り込んだ緑は、源六の侮蔑的な視線を気にとめることもなく舟の隅へと腰かけた。揺らいだ高瀬舟が三途の川の瀬を波打ち、蛍火色の輝きを放つ波へと青海波の模様を刻んでいった。  源六が櫂を川の瀬から離すと、黒い高瀬舟は三途の川の対岸を目指して進んで逝った。白い霧の彼方へと進む高瀬舟は、蛍火色の輝きを放つ幾重もの十文字模様の輝きに照らされながら三途の川を渡っていった。  高瀬舟に乗せられて地獄へと運ばれて消えいく緑の後ろ姿を、六文太は簪を握り締めながら見送っていた。薄暗く蒸し暑い夏の月光に包まれた蛍の儚い命を眺めるように、茫然と立ち尽くす他なかった。 「本当に来るのだろうか。緑さんの言うお人というのは。だが、信じねばならぬ。そのお方にこの簪を渡さねばなるまい」  三途の川へと続く死人が通る道の方角へと振り返った六文太は、白い濃霧の先へと思いを馳せた。  その者がいつ訪れるのかは六文太にも、お釈迦様にでさえも解らぬことであった。  だが、いずれ訪れるという待ち人の到来を予感した六文太は生気を取り戻していた。いずれ来たる尊くも遠い──遠人への、愛と呼べるかもわからぬ思いが六文太の魂を甦らせたのだ。 「そのお方は六文を施されているのだろうか。善人かあるいは──いや、それ以上は言うまい」  その者が六文を施されているかどうかも、その者が善人か悪人かどうかでさえも、最早六文太にとっては重要ではなかった。お釈迦様より任された船頭としての勤めも、あの世の道理でさえも、六文太にとって既に無意味なものに成り下がっていた。いずれ来る遠人への妄執とも愛とも呼びがたい使命感のみが、六文太を突き動かしていた。 「上手く見つけることが出来るといいのだが。うむ。ではこちらから誘うとしよう」  川の瀬に着けてあった高瀬舟に背を預けて座り込んだ六文太は、斜めに立てた櫂を三味線に見立て、待ち人を誘う為に唄い始めた。  お釈迦様のいる極楽浄土へと背を向けて、いつ訪れるやもわからぬ待ち人が訪れることを信じて、船頭としての任も忘れて、果たせるかさえ分からぬ約束事の為に、自分の生き方を最期まで貫き通したひとりの女子の為に、一心不乱に唄い続けるのであった。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加