地獄篇

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 蛍火色の妖し気な光を放つ三途の川は、白い濃霧に覆われていた。三途の川の川原には大小いくつもの小石が敷き詰められており、紅色の風車がいくつも突き刺さっていた。風が吹いてもいないのに途絶えることなく、風車がからからからと廻り続けている。  廻る紅い風車は彼岸花のように咲き乱れていて、遥か彼方から続く死人の道へと死の甘い香りを運んでいく。死人が三途の川まて辿り着けるように、からからからからと、時計が刻む向きへと抗うようにして、廻り続ける。  そして、また一人の女がその甘い香りに導かれるようにして、三途の川を訪れた。  女が現世で亡くなってから七日が経とうとしていた。  女の名前は(みどり)といった。  大正時代。妻ある夫と姦淫した罪に問われて、追い詰められた緑は川へと身を投げた。彼女を追いかけた村の衆たちに見守られながら溺れ死んだ緑は、その生涯を終えて、三途の川の瀬まで辿り着いたばかりであった。  さて、この三途の川をどう渡ったものかと、蛍火のような光を放つ三途の川を眺めていた緑の足もとに高瀬舟が乗り上げた。 「やいやい、この不貞もの。あんたは、この川を渡って、極楽浄土に逝く資格があるとでも思っているのかい」  高瀬舟を漕いできたのは、死人を極楽浄土へと運ぶ船渡しを生業にしている六文太(ろくもんた)という名の船頭だった。 「まぁ、私を極楽浄土へは連れて行ってはくださいませんのね」  緑は白菊の紋様の刺繍が施された黒い着物の袖を口許にあてて驚いたような素振りを見せたが、どこかその所作はあっけらかんとしていた。 「おうよ、おうとも。あたぼうよ。お前が向かうのは極楽浄土じゃねぇ。あの世の地獄だ。お前のような不届きな醜女(しこめ)がお釈迦様のもとで、のうのうと過ごせるとでも思っていたのかい」  六文太の言葉は嘘八百であった。緑を極楽浄土へと連れていくことが六文太の船頭としての勤めであった。  三途の川の船頭には、死者を極楽浄土へと送り届ける者と地獄へと送り届ける者の二通りが存在した。六文太は前者であった。  この六文太という男は江戸時代に他界して以来、お釈迦様より三途の川の船頭の任を授かった極楽浄土の遣いであった。極楽浄土に連れていく者たちを舟に乗せて三途の川を渡すこと百と数十年。六文太はこの仕事に誇りをもっていた。  ところが、お釈迦様からこの緑という女を極楽浄土に連れてくることを命じられた時、六文太は耳を疑ったものだ。
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