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「朱織……今日の試合、お前がスコアラー入って」
そう声をかけられたのは、土曜日練習が始まってすぐ、グラウンド入口の水飲み場で泥だらけのタオルを洗っている時だった。
「え?」
驚いてしゃがんだまま振り返ると、そこには同じく泥だらけのユニフォームを着た野球部の新しいキャプテン、悠が立っていた。
「どういうこと?」
理解できなくて首をひねると、悠は「あー、もぉー!」苛立たしそうに頭をガシガシとかき私の横に回り込んだ。
「だからー、今日の練習試合、お前がベンチスコアラーに入れって言ってるんだよ」
「なんで?」
「……なんでって……」
聞き返すと、それまでの勢いは何処へやら、見る間に眉をハの字に下げる。
スコアラーというのは、野球の試合のベンチに入り、打撃成績や試合の展開、投球のカウントをスコアブックに記録する係のことだ。書き方や用いる記号は特殊で、やろうと思ってすぐできるようになるものではない。
今日の試合は練習試合だ。公式戦ならまだしも、通常練習試合の時は私のような2年マネージャーではなく、経験を積むために1年生マネージャーに積極的にベンチに入ってもらい、スコアの記入に慣れてもらわなければならないと思っている。
それは私がこの野球部に入部した1年生の頃から変わらない、我がチームのルールみたいなものだ。だから、今日もベンチに入るのは1年後輩の中で一番期待している白澤さんと決めていたのだけど。
「あー、それはね」
穏やかな声が、割り込んできた。
「今日は練習試合とは言え相手があの桐澤学園だから、正確にデータ取りたいんだ。お願いできる?」
のしっと悠の肩に寄りかかって直耶先輩がニコニコしている。桐澤学園と言えば毎年甲子園への出場を最も有力視されているこの地区の強豪校だ。もうすぐ始まる地方予選でそこに勝たなければ、この先勝ち上がることはできない。
うちも今年は実力では負けてないと思うけど、試合展開は絶対複雑になるから、確かに1年生スコアラーでは正確に展開を追えないかもしれない。まあ、あんまり混戦すると私も時々ついていけなくなるけど……。
「直耶先輩がそう言うなら……」
「おい、さっきの態度とぜんぜん違うだろ」
「当たり前じゃん…、前キャプテンだよ?」
直耶先輩は3年生。夏の大会の地方予選を最後に引退になってしまったけど、たまにこうしてコーチに入って練習に付き合ってくれる。野球は高校まで、と自分の中で決めている上、大学も既に推薦入学が内定しているという文武両道を地で行くような人だ。当然部員たちの信頼は厚く、彼に憧れている人は男女問わずたくさんいる。私もその一人だ。
それに引き換え……
「俺だって現キャプテンなんだけど!」
「あ、直耶先輩。井上先生には言わなくていいですか?一応顧問だし」
「いいんじゃない?俺がいいって言うなら」
「あの……現キャプテンなんだけど」
その直耶先輩に指名を受けてこの秋からキャプテンになった悠は、私から見るとちょっと頼りない。落ち着いてる先輩と違って中身はコドモだし。でも、2年生ながらずっとレギュラーで、夏の大会ではそこそこチームの勝利に貢献していたのもあって、最近彼のことをカッコいい、という女子が増えてきた。
中身を知らなければ、たしかにそういう見方もできるかもしれない。ほら、良くスーツとかユニフォームは3割増しと言うし。
「わかりました。じゃあ、私がベンチ入りますね。
あ、でも今日自分用のスコアブック教室に置いてきちゃった。取ってこないと…」
「ああ、それなら」と直耶先輩が声を上げた。
「俺が持ってきた新しいやつがベンチにあるから、それに記入してくれる?できれば今日そのまま持って帰ってデータ入力するから」
「わ、ありがとうございます!」
引退した後なのに、時々こうして試合結果をデータベースに入力してアドバイスをくれる。なんて後輩思いの先輩なんだろう……。
「あ、朱織、相手校来たみたいだぞ」
悠の不機嫌そうな声で顔を上げると、なるほど校門から数台の車の列が入ってくるところが見えた。
「いけない!飲み物の用意がまだだったんだ。ごめんなさい、準備してからベンチ行きますから。先輩、スコアブックありがたく使わせてもらいます」
慌てて広げていた荷物をまとめ、部室に向かって走り出した。
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