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あなたの神様
「佐伯の文章さあ、やけに先輩に似てきたっぽくない?」
「あー、わかるわかる。文体とかめちゃくちゃ意識してるよねー。てか真似てる?」
「その説あるよねー。杏先輩のこと尊敬してるんだか何だか知らないけどさ、正直ダサい」
「だっさいよな、何がしたくて文芸サークル入ったんだか」
「さあね。チヤホヤされたいんじゃん? 男には媚び媚びだし」
わたしは、喫煙所の隅で固まっていた。ついたばかりの火が、濁った胃液みたいな水のなかに落ちていった。まずい。これは、まるで、立ち聞きじゃないか。
それにしても、このなんとも言えない気持ちは何なんだろう。佐伯さんの文体がわたしに似てきた――正直それは、この間原稿を送られた時に最初に思ったことだった。まるで、自分が書いたものみたいだった。しかし、自意識過剰だとすぐに考えをやめた。まさか自分を真似する人間なんて、居ないだろう、と。自分は取るに足らない存在だ、と。そうだ。取るに足らない、愛されない、居てもいなくてもいい、そういう人間のはずだ。それが、本当に、似せられている?
「あれ? わ、杏先輩!」
「あっ、あ、ごめんね、なんかちょっとぼんやりしちゃって気づかなかった」
「いやいやー、もう聞かれちゃったなら話しますよ。どう思います? 佐伯のこと。嫌なら嫌って言った方が……」
「やっ、や、わたしは別に……」
四つの瞳がこちらを見ている。値踏みするように、じい、と。お前はどの程度の人間なんだ?と、問いかけるように。
「別に……結局、自分にしかさ、自分の持ち味は出せないからさ。佐伯さんには、自分自身の持ち味を探して欲しいなあ、なんて」
「ですよねー!いやあ、本当に杏先輩は優しいなあ」
「じゃあ、わたしそろそろ帰るね、また次の飲み会で!」
とりあえず先輩らしい模範解答を投げ、逃げるようにして帰途についた。電車に揺られながら、わたしの鼓動は高まっていた。本当は疎ましく思うのが、普通なんだろう。でもわたしは、舞い上がっていた。気付けば指先は、佐伯さんにラインを送っていた。「近いうちに、飲みにでも行かない?」と。もっともっと、信仰されたい。憧れられたい。一分も経たぬうちに、「もちろん」とスタンプが送られてきた。わたしは口角が上がってしまうのを必死に抑えながら、電車を降りた。
「こんばんは、杏先輩」
「あ、こんばんは、急に誘ってごめんね、ちょっと話がしたくて」
そう切り出すと、佐伯さんは黙り込んでしまった。じいっとお通しの枝豆を、見つめながら。
「……わたし、杏先輩みたいに、なりたい」
「そう、なんだね。でもわたし、大した人間じゃないよ。文章には、自信がちょっとだけあるけど、他は全然。ほら、わたしさ、弱いから。この間は、迷惑かけちゃってごめんね」
「そ、そうですね、確かに部室でリストカットは辞めた方がいいかも」
「うん、もうしない。ちゃんとお手洗いで切るから。本当ごめん」
佐伯さんは、俯いてわたしの手首を見ていた。わたしは、精神病なのだ。弱くて、どうしようもない屑だった。そうやって自分を卑下しながら、一方ではわたしは自己愛の塊だった。精神病の、自分。人とはちがう、特別な自分。いつも、自己嫌悪と自己愛が拮抗していた。気持ち悪くて、最低で、でも。わたしは、ステータスに酔っていたのだ。
「……わたしも、精神病になったら、杏先輩みたいな文章が書けますか。どうやったら、精神病になれますか。わたし、先輩と違って、虐待も受けてない。イジメにもあってない。平凡な、人生でした。だから、凡人なんだ」
「いやいや、なるものじゃないよ、薬も毎日飲まなきゃいけないし、自傷だって身体に良くないよ」
すっ、と佐伯さんは自分の手首を見せた。そこには、躊躇い傷が幾つもあった。ひゅっ、とわたしの喉がなった。この子は、一線をもうこえたのだ。こちら側に、歩き出しているんだ。
「こんな傷、先輩からしたら、大したことじゃないかもしれない。でもわたし、本当に、病気になりたい。病気になって、病気じゃないと書けないものが、書きたい」
「佐伯さん……」
「わたし、小説家になりたくて。どうしても、どうしてもなりたくて。でも初めて杏先輩の文章を読んだ時、勝てないなって思ったんです。だから、だから手首を切りました。馬鹿なのは、自分でも分かります。でも、本気なんです」
複雑な感情が、どくどくと脈打っていた。わたしさえ居なければ、こんな事にはならなかったのか? 逆に、わたしが居たからこの子は自分から壊れにいっているのか。わたし如きが、一人の人生を変えた。歪んだ、歪みきった自己肯定感が、わたしを揺さぶった。
「っと、先輩……?」
気付けば、キスしていた。佐伯さんのリップクリームが、メンソールの香りをわたしに移した。居酒屋の個室で、わたしは佐伯さんを押し倒した。何度も、何度も、キスをした。初めは戸惑っていた佐伯さんも、おそるおそるわたしの唇を、その真っ赤な舌先でなぞり始めた。それはまるで、わたしの自慰行為だった。わたしのことが好きな、わたしを信仰している、佐伯さん。だんだん互いの息があがった。唐突に、佐伯さんはわたしを突き飛ばした。
「先輩、先輩……酔っ払ってるの?」
突き飛ばされたわたしは、トロンとした目で彼女を見つめた。別に、酒には酔っていなかった。ただ、自分に酔っていたのだ。それを見透かしたように、佐伯さんは軽蔑したようにこちらを睨んだ。
「……そういう人だったんですね」
ただそう言い残して、佐伯さんは個室から出ていった。わたしは、急に我に返って、顔が熱くなった。なんて馬鹿なんだ、なんて傲慢なんだろう。無造作に置かれた千円をつまみながら、どうすれば佐伯さんにまた信仰されるか、必死で考えた。もし今日わたしが自殺したら、永遠に佐伯さんはわたしを忘れないだろう。きっと、呪いのように、縛られるだろう。わたしの文章に、そしてわたしの体温に。ああ、わたしは佐伯さんの神様になるよ。まだ残っているカシスオレンジが、からんと鳴った。わたしは恍惚として、よだれをぬぐった。
ああ。わたしは、神様になるよ。あなただけの、神様に。
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