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江家の嫁
その人物はもちろん江滝である。彼は人、と言える物を抱えていたがどんな人間なのかは紅花には解らなかった。なぜなら、美しい絹糸で織った薄い布で全身を覆っていたからだ。線の細い江滝が一人で抱えるには少々大きい荷物にも見えたが、当の本人はそれを気にする様子もなく、愛し気にその包みに声をかけている。
「どうだ、ここが俺の家だ。立派だろう?」
「……して」
「そうだな……、うん、解っているさ」
「……して、……して?」
「ああ、ああ」
あれだけ冷淡な男が。
とろけている。呆けている。
顔が常に幸福に塗れている。
紅花があ然としていると、その視線に気が付いたのか江滝の視線が紅花の方へ向いた途端にいつもの江滝に戻って言葉を吐き捨てた。
「……なんだ、まだいたのか。さっさと消えてくれ。欲しい物があるなら持っていけ。私の屋敷にはもう近づくな」
「あの……旦那様」
「やめろ。もうお前の亭主は私ではない。私の妻はこの、睡蓮だけだ。なあ……睡蓮」
「……して」
「ああ、ああ。家の中を見せてやろうな。それから、俺の部屋でゆっくりと過ごすことにしよう……今夜はお前と夫婦になった初めての夜だ。何度も、何度も愛しあおうではないか……」
そう言いながらよろめき、転びそうになるも、しっかりとした足取りで家へと向かう江滝。
そして、何か、江滝が抱えているものが呟いている。小さく小さく、何度も何度も、江滝に囁いている。
その声を聞いた途端に「ひっ」と声を上げて江滝の家来は後ずさり、そのままどこかへ駆けて行ってしまった。
あまりにも、恐ろしかったからだ。
「破滅して?破滅して?ねえねえ……破滅してっ破滅してっ破滅してっ……はやく、はやく……破滅して、破滅して、破滅してえ」
可愛い声。そうかと思えば低い声。よく解らない。一人なのか、二人なのか、それとも三人なのか。
とにかく、その声は江滝に延々破滅を望んでいるのに、江滝は全くそれに気が付かず言葉を交わしているのだ。
「破滅して、」
「ああ、勿論俺の親にも紹介してやるとも」
「破滅して」
「そうかお前も嬉しいか」
「はやく、はやく」
「きっと驚くだろうな、うふふ……天女のようなお前が嫁にくるとは……きっと喜んでくれるさ」
「江滝、呪われるべし……奈落へ落ちるべし、破滅を、お前に破滅を、俺がもたらしてやろう。江滝、無限地獄だぞ、嬉しいだろう、殺してやろう」
「うん、うん。俺も愛しているよ、愛しの睡蓮」
「あはははは」
「ふふふふふ」
きっと、江滝が愛しているのは。
その腕に愛しているのは。
美しい女ではない。
求めている通りの嫁ではない。
(魅入られている、なにかおぞましいものに)
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