1 脅威

3/8
前へ
/19ページ
次へ
「……まさか、こんな……」  わたしはうろたえながら、思わずつぶやいた。こんな状況に、自分が出くわすことになるなんて思ってなかった。こういうのは、古いアニメやマンガの中だけだと思っていた。まさか本当に、生きものを道ばたに捨てる人間がいるなんて、人間不信のわたしでも、ちょっと想定していなかった。  周りには、わたし以外の人はいなかった。その道は遊歩道になっていて、小学生の下校時刻は過ぎているし、部活をやっている中学生の帰りは、もっと後だからだ。わたしはおそるおそる箱のそばにかがんで、中をよく見てみる。  手紙みたいな物はない。生きものは一匹。小さく丸まっていて、子犬なのか子猫なのか、よく分からない。けど、体がゆっくりと上下しているので、どうやら生きているらしい。わたしはほっと息をついて、かがんだままつらつらと考え始めた。 (……うちで飼うというのは、ありえない。お父さんもお母さんも夜まで働いてるし、弟も妹もまだ小さい。不可能だ。わたしは生きものはきらいじゃないけど、ペットを飼いたいとは思わないし……。クラスや家の周りで、ペットならいくらでも飼いたい、みたいな人も、多分いない……)  わたしはふだんほとんど使っていないスマホを出して、どうすればいいのかネットで調べ始めた。すると、それまで意識したことがなかったけど、そもそもペットを捨てるのは「動物遺棄」という「犯罪」で、まず警察に通報しなければいけないらしい。考えてみれば、ゴミのポイ捨てだって犯罪なのだから、生きものだったらなおさらだ。  警察の他には、保健所や地域の動物愛護団体に連絡する。それから自分で動物愛護団体の、里親探しの会というのに参加して、飼ってくれる人がうまく見つかれば、その人のペットになる。もし、見つからなかった場合は……。  わたしはくちびるを引き結んで、箱の中の小さな生きものを見つめた。さっきと同じで、頭をかくすようにして丸まっている。その体が、その時小さくふるえたように見えた。  気づけばもう日も沈みかけていて、あたりは冷えてきている。わたしはいたたまれなくなって、かばんの中からハンドタオルを出し、その子にかけてやった。 「あっ……」  タオルをかけようとしたわたしの指が、その時その子のふわふわの毛にふれて、わたしは思わず声をもらした。それは一瞬だったけど、たしかな体温を感じた気がした。たしかな命を、感じた気がした。 「……ごめんね……」  わたしはその子に、声をかけていた。 「……ひどいよね……。こんなにちっちゃいのに……、こんな所に放り出すなんて……。勝手だよね……、人間って……」  わたしは、なみだぐんでいたかもしれない。そのまましばらく電話もかけずに、わたしは箱のそばでうずくまっていた。  やがて、冷たい木枯らしが強さを増して、街路樹や周りの家の庭木が、急にざわめきの声を大きくしたようだった。わたしの体も、寒さで少しふるえる。早く電話をかけなくちゃいけない、と、わたしがそう思った時だった。  遊歩道の、学校とは反対の方向から、いつの間にか大人が一人、歩いてやってきていた。その人は手ぶらの、背の高い男の人で、どうもわたしに向かってくるようだった。わたしはあわてて立ち上がりながら思う。 (ひょっとして、保健所の人? 他の人が、すでに連絡してたのかな?)  わたしはたずねようとしたものの、どこか違和感を覚えてとまどった。その人は歩調を速めて近づいてくる。その表情にはうすら笑いが浮かんでいて、反対に目は大きく見開き、血走っていた。 (……何かおかしい……! これは、危ないっ……!)  そう思った時だった。男はかけだし、またたく間にわたしにせまって、右手でわたしの左腕あたりにつかみかかってきたのだ!  ズザアッ!  男はわたしの左後ろに、勢いよくうつぶせにたおれた。自分の心臓が猛烈な速さで脈を打っているのが分かった。わたしは呼吸を荒らげながら、後ろをふり返る。頭の中はこんな風だった。 (やっちゃったっ……! この人、痴漢っ? 危なかった! やっちゃった……! 目が異常だった! 危なかった! けがさせた? 技が使えた! 保健所の人じゃないよね? 危なかった……! 助かった……! 合気、やってて良かった……!)  その時の混乱は激しかったけど、わたしには、小さいころから続けている習いごとがいくつかあった。その中の一つが、合気道だ。わたしはおそってきた男の右腕を、とっさに自分の右手で上から押し、結果、男はおそってきた勢いのまま、わたしの左後ろにくずれ落ちたのだ。この技は隅落としという。  けれども先生すら言っていたように、合気道が護身術として、いつも上手く使えるとは限らないし、今の技は不完全だ。本来はうつぶせになった相手の腕をさらに押さえて、身動き取れなくしなければいけない。そもそも危険に気づくのが遅すぎたし、それに――、状況は、わたしが思っていたのとは、比較にならないくらい悪かったのだ。  わたしが男の方にふり返ったのと同時に、彼はゆっくりと無言で体を起こし始めた。わたしの顔からは血の気が引き、思わず身がすくんでしまって、二、三歩後ずさりすることしかできなかった。男は体をかがめてはいるものの、すでに向こうを向いて立ち上がっている。  その時だった。男の体が異様にふくれ上がり、ボタンや服の一部がはじけ飛んだかと思うと、その皮膚がみるみる毛深くなっていったのだ。低くうなるような声とともに、男の体がミシミシと音を立てている。間もなく真っ黒い毛皮となった、その皮膚の上からでも、男の体が筋骨隆々に変化しているのが分かる。指先からはするどい爪が伸び、変形したあごから牙がのぞいたところで、その化け物はこちらをふり向いた。  それは、巨大な猿だった。ただし、日本猿やチンパンジーの顔とはちがう。目や鼻の周りが、まるで歌舞伎の隈取りのように、赤や白で色づいていたのだ。それがなければ顔つき自体は狼男のようでもあり、そしてまた、その隈取りさえなければ、見る者にこれほどの恐ろしさは感じさせないだろう。こういう猿を、おそらく何かで見たことがあるはず……。  そう、マンドリルだ。けれどもその時のわたしには、その名を思い出してる余裕なんてなかった。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加