1 脅威

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 わたしの体は恐怖でふるえ、その場に立ちつくしていた。ひたいからはいやな汗が流れ、反対に口の中はかわききっている。耳には自分の心臓の音しか聞こえず、肩で息をしているにもかかわらず、空気が全然吸えていない。  目の前の猿の化け物はわたしを見ると、低い声を出して、こちらをあざ笑うかのようなおぞましい表情をした。続いてそいつが、二本足で立ったまま、わたしの方へ一歩ふみ出した、その時。  わたしは無理やり肺から空気をはき出し、その反動でなんとか息を吸いこんだ。そして――。 「キャアアアアーーッ!」  わたしはありったけの大声でさけんだ。恐怖心から声が出たというよりも、そうしなくては助からないと思ったのだと思う。そうすることで周りのだれかに助けを求め、それから、すくんでしまった自分の体を動かすために。  化け物はひるんだわけではなかったけど、その大きな体が、一瞬止まったようだった。わたしはすぐに、かばんに付けていた防犯ブザーのピンを引き抜く。  ピリリリリリリリ!  けたたましい音が鳴りひびき、今度は化け物も少しひるんだようだった。 (お願いっ、効いてっ……!)  続けてわたしは無我夢中でかばんの中を探り、持ち歩くようにしてまだ間もなかった、催涙スプレーを取り出し噴射した! 「ガァアッ!」  唐辛子成分のスプレーをまともに顔に浴びて、化け物はさけび声を上げた。ほとんど同時に、わたしは化け物に背を向け、家に向かって死にものぐるいで走りだした! (何っ? なんなのっ? 化け物っ! 怪物っ! 人間がっ……! 人間が化け物になったっ!)  わたしは必死で走りながら、ほとんどずっとそんなことばかり思っていた。悪夢を見ているんじゃないかとか、だれかのいたずらじゃないかとも思った。けれども、今にも張りさけそうなほど苦しい自分の心臓を初めとして、わたしの全身の反応が、それが現実であることをわたしに教えていた。  そうして間もなく、わたしはいよいよ苦しくなって、ほとんど無意識に足をゆるめ、大きく息をついた。同時にそれまで夢中だった頭がわれに返ったようになって、わたしはあわてて後ろをふり返った。  周りにはいない。引きはなしてはいた。けれども例の化け物の姿は、ほんの百メートルかそこらの位置に、まだ見えたのだ。たしかにスプレーは効いたはずなのに、化け物は早くも目が見えるようになっているのか、こちらに向かって走ってきている。  ピリリリリリリリ……!  わたしはその時ようやく、自分のかばんの防犯ブザーが鳴ったままだということに気がついた。一方で救いのないことに、周りに人が現れた様子はない。車やバイクの数台は通りすぎた気がするけど、わたしにも化け物にも、注意を向ける人はいなかったらしい。  おまけに悪いことに、わたしはわれを忘れて走っているうちに、そういう車道からもどんどんはなれて、ほとんど人気のない道に入りこんでしまっていたのだ。催涙スプレーも落としている。 (しまった……! なんてうかつな……!)  そう思ったところで、手遅れだ。すでに化け物は、広い道に出る所をこえてきている。わたしは歯を食いしばり、鳴りっぱなしのブザーを外して放り投げると、ふたたび必死で走り始めた。 (ううっ、ポイ捨てになっちゃうけど、どうか許して……!)  道はここから曲がりくねっていて、周りに家もほとんどなくなる。だれかが気づいて助けてくれるという可能性よりも、化け物がわたしを見失う可能性に賭けた方がいいと、わたしは走りながら考えていた。 (こんなっ……、ゴミの箱を拾おうとした結果、こんな信じられない事態にあっているようなわたしが、賭けに勝てるのかなんて絶望的だけど……)  と、ここでわたしはあることを思い出した。 (そういえばっ……。あのふわふわの、ちっちゃな子……。結局電話もできずに、置いてきちゃった……! しまった……。どうか無事に……。うっ、まさか……! あの化け物に、食べられたりなんかしていないよねっ……?)  その時だった。わたしの視界のはしを、何か通りすぎる物があったのだ。それは小さく、高速で飛んでわたしを追いこすと、わたしの目の前に回ってその姿を見せた。 「えっ! はっ?」  わたしは走りながら、そんな風に声を上げた。わたしの目の前で飛んでいたのは、小さくてクリーム色で、ふわふわと毛の生えたもの……。つまり、あの捨てられたペットだった。  わけが分からなかった。その生きものは飛んでいるけれど、鳥でもなければヒヨコでもない。哺乳類のように見えるけど、子犬とうさぎとテディーベアか何かを混ぜたような、見たこともない動物だ。  ……いや、現実の中では見たことがないけれど、これにそっくりな生きものは、小さいころに何度も目にしている。この、哺乳類の赤ちゃんみたいな、いかにも母性本能をかきたてるようなかわいらしいデザインは、幼児向けのアニメやぬいぐるみのキャラクターの、昔からお決まりのパターンなんだ。 「ププッ! ひょっとしてキミッ、バーバリアンに追われているのかププッ?」  いかにもな生きものが、舌ったらずな日本語でしゃべった。わたしは走りながらぎょうてんしたせいで、 「ハッ! ハァッ? ハゥッ……!」 という風に、今にも呼吸困難になりそうだった。生きものは相変わらずわたしと平行に飛びながら、わたしに向かって言葉をしゃべる。 「びっくりだププ! 変身したバーバリアンに出くわして、なおかつ無事で、これだけ引きはなせるなんて、すごい女の子だププ! キミなら、ひょっとして……!」
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