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かつて「鳩だった」と思われる肉片が道端に転がっている、そんな異常に遭遇する機会はそうそうないだろう。週に三日ほどを習慣としているウォーキングの最中に見つけたのは、鳩の腿から趾にかけての部分である。土鳩特有の灰色。周囲には一滴の血の跡すらなく、羽毛の側にも乱れはほとんどない。にもかかわらず、乱暴にねじり切ったかのように肉片は生々しく残っており、状況の矛盾をものがたる。別にこのミステリーを解明する気はないが、ふと鳩の肉って美味いのだろうかと思う。鳩肉、に相当する英単語は存在しなかった。
美味いと聞いたことはある。残念ながら進んで食おうとは思わない。基本的に流通に乗らない鳩を食べようとするのであれば自分で狩らなければならない。鳩だし狩るのに苦労はないだろう。なんたって鳩だし。心理的ハードルの方が恐らくかなり高い。そして繰り返すが、進んで食おうとは思わない。食いたいとは思えない。ただ再び思う。食いたいと食いたくないの、境界は一体どこにあるのだろう。
なんとなくではあるが、単純に「状態」の問題のような気もする。きっと今はただの「死骸」だから食欲が湧かないだけだ。たとえばこれが、調理されて唐揚げになって出てきたら。ひょっとしたら普通に食うかもしれない。
ウォーキングのコースはもっぱら、護岸工事でコンクリート整備された運河の両岸を走る散歩道である。片道一キロ往復二キロ。端から端までゆっくりと、行って帰って三十分。約四百メートルおきに、橋に乗った三本の県道が運河を渡る。三本のうちの、家から見て一番手前に位置する橋の、下を通る散歩道の片隅に、雨と日差しから逃れた茶トラが住み着いている。恐らくは、天然の野良ではない。
初めて見かけた時は首輪をしており、毛並みも艶やかで肉付きも良かった。いや、肉付きは今でも良い。飼い猫にしてはそこに居る頻度が高すぎるのと、しばらくして首輪が外れたのを見て、彼は主を失ったのだと確信した。主を失ってもなお、彼に野生が戻ってくることはなく、私に腹を撫でられるままになっている。この散歩道を歩く人影は多く、中には彼を目的にする人もいるらしい。私の目的も半分は彼だ。決して彼を食うためではない。彼に食わせるためだ。空になった猫缶をビニール袋に入れる。猫肉、に相当する英単語は存在しなかった。
彼を食おうとする人はきっと少ないだろう。たとえ唐揚げとして出てきたとしても、「あの猫を調理しました」とか言われたら。多分もう普通に色々と無理な気がする。それがなぜかを説明できるような哲学を、私は持たない。
「お前、今からでも帰ってこんか?」
実家の両親とは定期的に連絡を取っており、少なくとも週一の頻度で通話をする。そのたびに、実家へ帰らないかという話をされるのだが首を縦に振ったことはない。別に帰りたくない理由があるわけではない。帰りたい理由も、あまり無い。たぶん少しはある。でも一人でいるのがきっと良い。気楽に気儘に人生を謳歌する。誰かがいると気が詰まる。私の人生は私だけのもの。誰にも邪魔はされたくはない。
貯蓄はあるので仕事は辞めた。お金は多分、使い切ることはないだろう。会社からは猛反発を受け、猛烈に引き留められた。頼むから辞めてくれるなと、堅物で知られているはずの上司が、目に涙を溜めながら説得にきた時はさすがに心が動き痛んだ。
何かが呼応したかのように、私が唯一お金を注ぎ込んでいたソーシャルゲームの、サービスが終了するという告知があった。ちょっと前に小さめのイベントが始まったばかりで、配布されていたキャラクターをゲットして間もなくのことである。無駄になったお金に怒りも悲しみも湧いてはこなかった。なるほど世界が消えるとはこういうことなのかと、なぜか妙に納得した。
生まれて初めて買ってみたタバコを咥え、火をつけてみる。口に含んだ煙を肺に押し込もうとするが、猛烈な咳気に襲われて全て吐き出した。アホだ、こんなものを吸う奴は。考えられない。こんな思いをしてまで、なぜこんなものを吸わなければならないのか。健康への影響を考えても、本当にまるで意味がない。止まらぬ咳と涙目のまま、揉み消した吸殻と一本しか減っていないタバコのケースをビニール袋へ入れた。
そこでふと思う。ゲームとタバコの違いはなんなのだろうかと。どちらの無意味さも、人に与える影響の度合いを考えればどっこいどっこいもいいところである。しかし、それぞれが私に与えた感情は真逆にも等しい。その時々を楽しむこと、それ自体に意味はあるのではなかろうか。その意味に、さらに意味を求めるのはナンセンスだ。多くの人がそれに気付いていない。突き詰めれば人生は無意味であるという事実を、多くの人が知らないふりをして生きている。全ては無意味である、だからこそ意味は自分で作る。
スマートフォンで垂れ流しにしている動画サイトの動画が、私の視聴履歴からおすすめの動画を自動で選び、延々とループする。自分が好んだ記憶も再生した記録もないセレクトの曲が次々と再生されてくる。その曲が選出されたのは、私が自然とそういう曲ばかりを選んで聴いていたためなのだろう。私が今、最も聞くべき曲がどれなのかを、AIがどのように特徴量抽出して選出したかはわからないけれど、結果として私は今このフレーズを聴いている。果たして去年の同じ日にこれを聴いていたら、また違った感情を抱いただろうか。
――ねえ 明日とても素敵なことがあったなら その時は自分を褒めてあげよう
そうだね。
優しい歌詞と歌声に、心が洗われていく。私はもう何も頑張ることはないけれど、残された日々をただ生きる。私にも明日はやってくる。明日はきっと、やってくるだろう。それだけで十分なんだよと、明日の私に賛辞を送ろう。明日の私はさらに明後日の私に賛辞を送り、明後日の私はさらに明明後日の私に賛辞を送る。そのようにして連綿と、今日の明日は紡がれていく。いつかは途切れるその日まで、言葉は連綿と紡がれていく。
「お前、また人と生きるか?」
ちょうど一年前に実家の猫が他界して、両親ともにペットロスに陥っていた。彼らの家へお迎えするのがちょうど良いだろう。どうか私の代わりに、彼らのそばにいてやって欲しい。
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